生年月日 | 1933年10月22日 | 私の履歴書 掲載日 | 2018年1月01日 |
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執筆時年齢 | 84 歳 |
1933年10月22日 – 神奈川県生まれ。1950年に松竹歌劇団(SKD)に5期生として入団し、スリーパールズと呼ばれた。1953年に在籍中のまま、松竹(松竹京都撮影所)から映画『純潔革命』でデビューする。豊かな歌唱力を持ち味とした。
その後、1954年にSKDを退団し、1956年からの東宝専属を経てさまざまな分野で活動する。特に1958年から放送のテレビ黎明期の音楽バラエティで自らの冠司会番組でもある『光子の窓』では、洋窓から顔をのぞかせてテーマ曲を歌うオープニングが注目を集め、人気を博した。1960年に作曲家の芥川也寸志と結婚するも、結婚生活は2年で破綻した。
華やかな貴婦人からうらぶれた婦人まで多彩な役柄を演じ、『社長シリーズ』をはじめとする東宝喜劇に多数出演した。 日本ミュージカル界のパイオニアでもあり、数々の大作に出演した。『私はシャーリー・ヴァレンタイン』などで芸術祭賞を3度受賞している。1999年には紫綬褒章、2005年には旭日小綬章を受章した。2013年に第48回紀伊國屋演劇賞・個人賞を受賞した。永年の舞台の功績に対して、2014年に第39回菊田一夫演劇賞・特別賞を受賞した。テレビドラマでは石井ふく子プロデュース作品や橋田壽賀子脚本作品にたびたび起用された。
1.トリプルキャストのつらさ
念願の「ラ・マンチャの男」の日本公演での上演が決まったものの、私が望んだ主役アルドンサ役は3人が交代で演じるトリプルキャストだった。稽古の時間がほかの役の人たちの3分の1しかとれない。それで本番が始まれば、3人の誰がいいか、観る人に比べられてしまう。なんという試練だろう、と思った。
でも自分がお願いして実現した舞台なのだから、やり通すしかない。私は覚悟を決めた。これからは一切、新聞もテレビも見ない。人の評判は耳に入れず、自分の演技のことだけ考えよう、と。体力づくりのため、毎朝、都内の自宅近くを走り始めた。
稽古が始まると神経がピリピリと研ぎ澄まされて夜も寝られない。一日中どこにいても役のことが頭から離れず、私が家にいる間はみんなが忍び足で歩くくらい家中が緊張で静まり返った。
稽古は体力面以上に精神的につらいものだった。歌い踊って気持ちが高まったところで演出家から「スイッチ」と言われ、ほかの人と入れ替わる。十分に稽古を積んだという感覚を持てないまま、公演が始まった。
出番の日は毎日、舞台袖の神棚に手を合わせてから舞台に立った。公演が進んでいくうちに、一つの役を3人で交代で演じることのつらさが重く私にのしかかってきた。本場NYで観たアルドンサ役が頭から離れない。3分の1の稽古と3分の1の出演回数では、どうしても自分が遅れているような気がしてたまらなかった。
次の日は出番がなく休み、という夜、寝れずにいた私の頭に「もうこの世にいたくない」という考えが浮かんだ。起き上がって外を見ると、うっすらと明るくなり始めていた。このとき自殺を考えた。
その後、ふたりの女優さんが体調不良で降板し、アルドンサ役は結局、私一人になった。1969年、の初演に続いて70年、73年と上演を重ねることができた。
2.体力勝負(1時間20分に10回衣装替え)
1981年10月、8日間で10回の公演だった。タイトルは「光の彼方に ONLY ONE」。赤、青、緑の3色のレーザー光線が私の演じる老妖精を鳥かごのように囲む。妖精が歌を歌うとレーザー光線の囲いが拡がり、歌を止めると囲いが小さくなって身を締め付けられそうになる。懸命に歌い続けるうちに、妖精に変化が訪れるストーリーだった。
ノンストップで1時間20分の舞台で10回の衣装替えがある。それをすべて一人で演じ通さなければならない。稽古の時から全身びっしょりと汗をかく。演技もさることながら、息をつく暇もないほど動き続ける体力が重要になる。
初日が近づくと、スタッフの一人が「楽屋に戸板、表に救急車を用意しておくからね」と言った。戸板は万一、私が倒れた時の担架にするから、という意味だった。幸い戸板にも救急車にもお世話になることはなく、私たちは無事公演を終えた。(このときの私の年齢は48歳)。
3.ミュージカルの醍醐味
この醍醐味は歌と踊りとお芝居を体の中で結婚させることだと思う。とても難しいけれど、舞台でしゃべっているうちに声の響かせ方がだんだん歌になって、セリフから歌にうまく持って行けたときには自分でもゾクゾクする。それを私はいつからかセリフと歌に「橋を架ける」と言うようになった。
思えば日本にミュージカルのミュの字もなかったころからニューヨークに通い、たくさんの舞台を観た。出ているのはどんな人たちなのだろうと思い、俳優たちが通う現地の学校の授業も聴講した。この雰囲気を日本に伝えたいとの思いで舞台に立ってきたのです。
くさぶえ みつこ 草笛 光子 | |||||||||||
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『サンケイグラフ』1954年1月2日・9日号 | |||||||||||
本名 | 栗田 光子(くりた みつこ) | ||||||||||
生年月日 | 1933年10月22日(91歳) | ||||||||||
出生地 | 日本・神奈川県横浜市神奈川区 | ||||||||||
身長 | 158 cm | ||||||||||
血液型 | B型 | ||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||
ジャンル | 舞台、映画、テレビドラマ | ||||||||||
活動期間 | 1950年 - | ||||||||||
配偶者 | 芥川也寸志(1960年 - 1962年) | ||||||||||
著名な家族 | 妹(富田恵子) | ||||||||||
事務所 | 草琇舎 | ||||||||||
公式サイト | http://www.kusabue-mitsuko.com/mobile | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『ありがとう』 『繭子ひとり』 『必殺シリーズ』 『熱中時代』 『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』 『真田丸』 『その女、ジルバ』 『鎌倉殿の13人』 映画 『社長シリーズ』 『犬神家の一族』 『悪魔の手毬唄』 『老後の資金がありません!』 『 九十歳。何がめでたい』 バラエティ番組 『光子の窓』 | |||||||||||
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草笛 光子(くさぶえ みつこ、1933年〈昭和8年〉10月22日 - )は、日本の女優。本名:栗田 光子(くりた みつこ。出生姓は富田)。
神奈川県横浜市神奈川区出身。草琇舎(そうしゅうしゃ)[1]所属。オスカープロモーションと業務提携している。
神奈川県立横浜平沼高等学校卒業(49期[1])。妹は富田恵子。作曲家の芥川也寸志は元夫。