生年月日 | 1888年6月06日 | 私の履歴書 掲載日 | 1964年11月13日 |
---|---|
執筆時年齢 | 76 歳 |
1888年6月6日 – 1981年8月1日)。長崎県生まれ。ジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。在学中に青鞜社に参加する。青森県立女学校の教師ののち、東京日日新聞の記者となった。
1916年、金銭援助をしていた愛人の大杉栄が、新しい愛人の伊藤野枝に心を移したことから神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷、殺人未遂で有罪となり一審で懲役4年を宣告されたが、控訴により2年に減刑されて同年服役した。
1.竹久夢二の思い出
私が夢二と知り合ったのは環夫人と知り合ったのが縁故だったので、竹久家では私は環夫人よりの関係にあった。夢二氏と環夫人との間は、最後にとうとう破局におちたが、麹町・早稲田・牛込と移転しながら、もめごとは絶えないようであった。夫人の方が少し年長で、二人の関係が生まれたときから夫人の方では夢二氏を年少扱いにし、夢二氏の芸術性が認められ社会的地位が高まっても、モデル役としての自分の協力によっての芸術とだけ評価していられたのかもしれない。
大正2年(1913)ごろに、夢二氏が夫人のために日本橋の港町の角の近くに、絵はがきなどの小物を売る店を開かれた。自宅はそこから近い鎌倉河岸の路地の奥にあり、そこには東郷青児、浜本浩、恩地孝四郎氏など麹町以来の夢二氏と氏の芸術を愛する人たちが集まった。
ここではスケッチ旅行の多い夢二氏の留守の間は、夜になると環夫人を囲んで盛んな本読み会だった。交代で音読みするのであるが、みんなが一番喜んでいたのは泉鏡花だった。
2.婦人記者
東京日日新聞(現毎日新聞)の記者に採用されたが、そのころは、婦人記者はどこの新聞社でも一種のアクセサリーみたいなものだった。給料も低く、料理、服装などの家庭記事を作るのが主な仕事だった。それでも「朝日」には竹中繁子、「時事」には豊田、「萬朝には服部、「中央」には中平というように、個性を持った人たちがそろっていた。番町学園出の竹中さんの英会話は立派であり、豊田さんは速記ができた。共同でインタビューするときには、皆このお二人に不明なところを確認してもらった。
では、私には何ができたろう?
私の場合は多読がモノを言った。子供のころから手当たり次第に活字を読んでいたので、人名、地名、時代名、著者名などを記憶していた。それで内外の歴史的人物が出ても現代人の名が出ても、すぐそれを捕らえることができた。私は社会部で扱う政治記事のようなところに回された。それには政界人や役人に顔のきく政治部の記者たちが、面白がって日程を作り、面会の約束をとり、相手が得意とする話題などを教えてくれた。その点で私はみんなのペットだった。
3.大杉栄事件
春先のある日、夜になって大杉氏がヒッコリと私のところにみえた。「きょうは尾行をまいて来た。泊まって行ってもいいんだ」と言われた。私はとても複雑な気持ちだったが、それを拒む気持ちもなかった。私は自分の一生の悲劇は、恋愛というものを「本能によらず」に頭の上だけでしていたことにあると思う。頭脳が先走っていて、現実が見えなかった。
大杉氏には堀安子さんというかなり年長の夫人があった。
ある日、外で大杉氏に会うと、意外なことを聞かされた。「伊藤野枝君が下宿に入り込んで来てこまっている」。「どうしたんです?あの人、子供さんあるんでしょう?」。「家庭が面白くなくて出てきたらしい。子供は御宿に預けるというんだが、金がないんだ」。私は少しの金を出して上げた。
そのころ、大杉氏は収入がなく、経済的い困っていた。私は前に言ったアルバイトもあり、月末には二人分の下宿代を何度か払っていた。それで、10月初めに入金の予定があると言われていた金を少し回してもらうつもりでいると、二人で神奈川に出かけられたと聞いて変な気がした。
私が「日蔭茶屋」事件を起こすのは大正8年(1919)11月8日だそうである。私はその日電話をかけてみて、二人の神奈川行きを知り、変に混濁した気持ちで午前中机の前で考えていた。
私は午後になって、神奈川に行くことを決めた。そして3人で話をつけようと思った。私はその日の午前中に考えてきたとおり、「もうこれ以上こんな状態にいることは耐えられないから、どんな形かで解決してほしい」と大杉氏に言った。
「君の話はわかっているよ。金だろう、金は返すよ。金さえ返せばいいんだろう」。私は唖然とした。この人には私はわずかな金の対象として写っているに過ぎないのか?私はこの人に、もっと人間的な扱いを期待していた。それが全面的に裏切られた。私は肚が決まった。復讐だ!
大杉氏にかすり傷を負わせた罰は、2年の服役だった。その裁判には、当時の有名は弁護士の鈴木富士弥氏が進んで当たってくださった。鈴木氏が刑期をもっと短縮しようとされるのを断って、私は3審を待たずに進んで下獄した。
神近 市子 かみちか いちこ | |
---|---|
| |
生年月日 | 1888年6月6日 |
出生地 | 長崎県北松浦郡佐々村 |
没年月日 | 1981年8月1日(93歳没) |
出身校 | 女子英学塾 (現津田塾大学) |
前職 | 婦人運動家 評論家 |
所属政党 | (左派社会党→) 日本社会党 |
称号 | 従四位 勲二等瑞宝章 |
選挙区 | 東京都第5区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1953年4月19日 - 1960年10月24日 1963年11月21日 - 1969年12月2日 |
神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ[1]、1888年6月6日 - 1981年8月1日[2])は、日本のジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。ペンネームは榊 纓(さかき おう/えい)[1][3]。1916年の日蔭茶屋事件で一躍著名になり、大杉栄に対する殺人未遂罪で2年間服役した。戦後に政治家になり、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた。