美女と才女
石井好子  
歌手
生年月日1922年8月04日
私の履歴書  掲載日1991年6月01日
執筆時年齢68 歳

1922年8月4日 – 2010年7月17日) 東京生まれ。日本のシャンソン歌手、エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。
元逓信大臣で日本鉱業創業者の久原房之助は祖父(母の父)である。
衆議院議長、日本体育協会会長などを務めた石井光次郎は父である。
母の勧めにより6歳からピアノを習う。東京音楽学校では主としてドイツ歌曲を学んだ。同校を卒業して、1945年にジャズ歌手となった。渡辺弘とスターダスターズの専属歌手などを務めたのち、サンフランシスコでの留学を経て1952年に渡仏し、パリでシャンソン歌手としてデビュー。サンフランシスコ時代に、遊びにいったホテルのバーで偶然ジャズ界の重鎮ルイ・アームストロングと出会い、そのホテルのステージで共演したことがある。
エッセイストとしても知られ、1963年に上梓した処女作『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』は、半世紀を経た2017年現在まで一度も絶版になっていないベストセラーである。食通として知られ、『料理の鉄人』にはたびたび審査員として出演した。

1.デビュー
夫の日向正三は英語が話せるのでNHKの国際局に努め、戦前の東京ローズで有名な対米軍宣伝放送「ゼロアワー」の仕事をしていた。その時の仲間に森山久さん(歌手森山良子の父)が居て終戦後、森山さんの勧めで日向が出資し、「ニューパシフィックオーケストラ」という大編成のジャズバンドを作った。
戦前ジャズで鳴らしていた一流のバンドマンが集まったから、進駐軍は奪い合いで演奏の申し込みがきた。日向はそのマネジメントで水を得た魚のように張り切った。「女の歌手が見つからないんだよ、1回で良いから歌ってくれよ」と言われて、「ドリーム」という歌を即席に覚えて、横須賀の米軍キャンプだった。4,5千人の兵隊で体育館はあふれ、熱気がむんむんしていた。

2.米仏音楽留学
1950年の7月、有楽町にあったピカデリー劇場でスターダスターズの渡辺弘さんが送別コンサートを開いてくれた。司会は当時NHKでレギュラー番組を持っていた森繁久彌さん。先輩の淡谷のり子さん、バレエの貝谷八重子さんも特別出演で見送ってくださった。米国でジョセフィン・ベーカーに会い、「シャンソンを勉強したいならパリにいらっしゃい」と言われ、パリ行きを決断したのでした。
1952年パリでは、オペラ通りから少し入った品の良い「パスドック」店で、お客の前でいきなりオーデションを受け採用された。この客席には、エジプトの王様とか、ゲーリー・クーパー、エロール・フリン、ミシェル・モルガンの顔も見えた。小林秀雄、今日出海川口松太郎、女優の京マチ子、有馬稲子、それに越路吹雪さんも何回か来てくれた。

3.音楽事務所
私も40歳にあと1年という年だった。自分が歌うことよりも後輩を育てるべきではないかと思い、教えるだけでは社会に出せないから音楽事務所を作ろうと考えた。3坪の事務所にマネジャー一人、経理の女性一人、私の秘書一人と一人一坪あてだった。事務所を始めた半年後にホテルオークラがオープンして、音楽部門を一手に任せていただくことになった。
そのおかげで事務所は一人前になっていったのだが、ポピュラー音楽だけでなく、宴会では邦楽や色もの(曲芸、奇術、アクロバットダンス、手品など)を扱うのに苦労した。しかし、1964年には岸洋子が「夜明けのうた」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。レコード大賞は、それまではたいてい歌謡曲におりていたから岸洋子の受賞は私たちにとってというかポピュラー界にとって「夜明け」のようにうれしいことだった。翌年は田代美代子が、その翌年はシャンソンコンクール出身の歌手、加藤登紀子が新人賞をとり事務所の表情は明るかった。

4.アルフレッド・ハウゼ楽団の楽器が行方不明
音楽事務所は外人タレントを招聘して人気を博していた。そこでシャンソン歌手だけでなくドイツからアルフレッド・ハウゼタンゴオーケストラを招いたが、こちらがびっくりするほどの人気で切符は売り出した途端に売り切れとなった。一行30名、第1回のコンサートは大阪で大成功のうちに幕を下ろした。その翌日の朝6時に電話が鳴った。
「ハウゼたちの楽器を乗せた貨物機が羽田に着かないんです。行方不明です」というのに飛び起きた。東京公演はその日の午後2時と6時、「どうしましょう」というマネジャーは電話であきらめの声を出した。私は「楽団の人は興奮していると思うけれど時間には会場に来てもらってね。何とかして楽器を集めてみるから」と電話を切った。
そして楽器のありそうなありとあらゆるところへ電話した。失礼もかえりみず、長いことご無沙汰していた音楽学校の先生から先輩、後輩にも電話した。
午後一時、ハウゼの一行は楽器もないないのにどうするのかといった顔でバスに乗せられてやってきた。ハウゼは私の顔を見ると絶望的なジェスチャーで両手を広げた。「コンサートは開きます。弾きにくいかもしれないけれどこれで我慢してください」。寄せ集めた楽器を見せるとウオーといった。

石井 好子
婦人之友社『婦人之友』第54巻第9号(1960年)より
基本情報
出生名 石井 好子
(いしい よしこ)
生誕 1922年8月4日
出身地 日本の旗 日本東京都
死没 (2010-07-17) 2010年7月17日(87歳没)
職業 シャンソン歌手
エッセイスト
実業家
活動期間 1952年 - 2010年

石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010年7月17日)は、日本シャンソン歌手エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業[1]東京音楽学校声楽専科卒業[2]

  1. ^ 東京都立三田高等学校の紹介。石井が同校の卒業生である旨を記載。”. 東京都立三田高等学校. 2017年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月16日閲覧。
  2. ^ 石井好子さんが死去 シャンソン歌手の第一人者”. 日本経済新聞 (2010年7月21日). 2017年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月16日閲覧。
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