生年月日 | 1925年5月10日 | 私の履歴書 掲載日 | 2019年5月01日 |
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執筆時年齢 | 93 歳 |
1925年(大正14年)5月10日 – 大日本帝国統治下ソウル生まれ、大阪府育ち。
脚本家、劇作家、タレントである。1949年(昭和24年)、松竹に入社し、脚本部に配属される。1964年(昭和39年)『袋を渡せば』で本格的にテレビドラマの脚本家デビュー。同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出した。
代表作は『おしん』 『おんな太閤記』 『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』 『春日局』 『渡る世間は鬼ばかり』など。
1.「おしん」の発想原点
私は松竹の脚本部員になったのはいいものの、会社の仕事は相変わらず脚本家の下働きばかり。何年たっても独り立ちできるとは思えない。毎日会社に行く必要もない上に、収入は倍以上増えた。ただ、あの頃は女の一人旅だと、なかなか宿に泊めてくれない。傷心旅行の果てに自殺でもされたら困るのが理由だ。
そんな私はユースホステルの存在を知って「これだ」と思った。ユースとついているが年齢制限はなく、女の一人旅でも問題ない。しかも安い。日本地図を眺め、乗ったことがない鉄道路線を選び、目的地を決めずに出発した。
ユースホステルは男女別の相部屋になっていて、行く先々で見知らぬ人々との出会いがあった。夜は庭でたき火をしながらおしゃべりをする。純粋な旅行好きな人もいれば、悩みを抱えてやってきた人もいる。そんな十人十色の男女と様々な話をした。年間200泊という年もあった。
ある日、私は最上川に向かった。終戦直後、食べるものを求めて頼った山形県の左沢で聞いた話が胸の奥底で眠りから覚めたようだった。雪が舞う最上川を、筏に乗って奉公先へと下っていく少女。その光景を求めて赤湯から白鷹に行った。町の真ん中を流れる最上川沿いに下流へと汽車に乗り、バスに乗り、ときには歩いた。
途中、川で洗濯している女の人を見た。「いつか明治、大正、昭和を生きた一人の女性の物語を書こう。そのときはこの場所を最初の奉公先にしよう」。具体的な構想があったわけではないけれど、そう決めた。
2.恩人・石井ふく子さん
石井ふく子さんはプロデューサーとして原作、脚本家、ディレクター、配役などを決め、「東芝日曜劇場」をTBSの名物番組に育てた人だった。以前、「七人の刑事」の脚本を担当しているとき、石井さんと廊下ですれ違っても挨拶をしてもらえなかった。そのとき笑うでもなく真面目一方の話し方。「つまらない女だな」と思ったし、石井さんも私を長く付き合うつもりもなさそうだった。
私が「袋を渡せば」のドラマ原稿を渡したとき、一読した彼女は「今まで日曜劇場ではこういうのをやっていなかった。やりましょう」と即決してくれた。
でも石井さんは厳しかった。原稿のあちこちを指して「これはテレビのセリフじゃないわ」「ここ読んでごらんなさい。こんなキザなセリフ言う?」とダメ出しが続く。何台ものカメラを使い、アングルが頻繁に変わる映画の脚本だとセリフは短いほどいいのだが、テレビでは長くても構わない。「ホームドラマはおしゃべりドラマなんだ」と思って原稿に手を入れた。
「袋を渡せば」が好評のうちに終わると、ホッとした私に石井さんが「愛と死をみつめて」というベストセラーを持ってきて、「これを脚色してみない?あなたにお任せするわ」と言われた。
難病で死に別れるマコ(山本学)とミコ(大空真弓)の純愛物語。往復書簡を基にした実話だけに広く人々の心を打った。何度も再放送され、歌謡曲が作られ、映画にもなった。
石井さんにダメ出しされているうちに、映画時代に身についていたものが少しずつ剥がれていき、テレビドラマがどういうものかぼんやりとわかってきた。私より1歳下の石井さんに血を全部入れ替えてもらった気がした。
「愛と死をみつめて」が放送された1964年(昭和39)4月、私は38歳でようやく脚本家として足が地に着いた。
橋田 壽賀子 | |
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プロフィール | |
本名 | 岩崎 壽賀子 |
誕生日 | 1925年5月10日 |
出身地 | 日本統治下朝鮮・京城府 |
死没日 | 2021年4月4日(95歳没)[1] |
死没地 | 日本・静岡県熱海市[1] |
血液型 | B型 |
活動期間 | 1949年 - 2021年 |
主な作品 | |
テレビドラマ | 『おんな太閤記』 『おしん[2]』 『いのち』 『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』 『春日局』 『橋田壽賀子ドラマ 渡る世間は鬼ばかり』 『おんなは度胸』 『春よ、来い』 『なるようになるさ。』シリーズ 『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』など |
受賞 | |
NHK放送文化賞:1979年(昭和54年) 菊池寛賞:1984年(昭和59年) モンブラン国際文化賞:2000年(平成12年)など | |
その他 | |
「橋田賞」創設者 紫綬褒章:1988年(昭和63年)、 勲三等瑞宝章:2004年(平成16年)、 文化功労者:2015年(平成27年)、 文化勲章:2020年(令和2年)、 従三位:2021年(令和3年)、 熱海市名誉市民:2021年(令和3年) |
橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年〈大正14年〉5月10日 - 2021年〈令和3年〉4月4日[1])は、日本の脚本家、劇作家、タレントである。本名:岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)[3](旧姓:橋田)。位階は従三位。静岡県熱海市名誉市民。
1949年(昭和24年)、松竹に入社し、脚本部に配属される。1964年(昭和39年)『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本家デビュー[4][5][6]。同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出した。
代表作は『おんな太閤記』、『おしん』、『いのち』、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』、『春日局』、『渡る世間は鬼ばかり』、『橋田壽賀子スペシャル 源氏物語 上の巻・下の巻(光源氏第1部・第2部)』、『おんなは度胸』、『春よ、来い』、『なるようになるさ。』シリーズ、『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』など。