生年月日 | 1920年5月09日 | 私の履歴書 掲載日 | 2007年12月01日 |
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執筆時年齢 | 87 歳 |
1920年(大正9)5月9日 – 2012年(平成24)11月10日 、京都生まれ。
女優、歌手、マルチタレント、司会者。俳優の嵐寛寿郎の従妹である
1961年(昭和36年)、前年の舞台『がしんたれ』で演じた林芙美子役が脇役ながらも高い評価を受け、菊田はこれを発展させる形で『放浪記』の脚本を執筆。森は主役の芙美子役に抜擢される。この年の芸術座10月公演で初演にして8か月のロングランとなり、芸術祭文部大臣賞、テアトロン賞(東京演劇記者会賞)[22] を受賞。以後、生涯通算で2017回を数える森の主演代表作となる
1.菊田一夫先生
「花のれん」に出演する機会をくださった菊田一夫先生があるとき言われた。「君は面白いが、やっぱりワキ(脇役)だな」 「越路吹雪のようにグラマーでもないし、宮城まり子の個性もない。でもワキが良くなければ、いい芝居にならないんだよ」と。1960年(昭和35)10月に開幕した「がしんたれ」は菊田先生の自伝だった。幼くして養子に出された先生は関西で丁稚奉公しながら夜間学校に通い、上京して印刷工になる。詩人を志し、サトウハチローや林芙美子たちと出会った。私はその芙美子役を演じた。
詩人仲間が集まる店に芙美子が一升瓶を携えてくる。皆ようようと迎える。飲み直すかと出かけて行くときは芙美子を誘わない。未成年の菊田先生と芙美子二人が残され、ご飯をぼそぼそ食べる。「彼女は好かれていなかったんだ」。菊田先生はおっしゃった。本人をよく知るだけに、胸を突き動かされるような会話が見事だった。
翌年1961年10月、菊田先生は「放浪記」の芙美子役をくださった。デビューして30年、初めての主役は41歳になっていた。
2.恩人と思う3人の母(逆境に救いの手)
昭和24年(1949)の秋、過労が原因で結核に罹った。幼友達の友人医師山口博先生から「このまま仕事を続けたら危ない」と言われ、お母さまがサナトリウムを世話してくださった。先生は結核の特効薬ストレプトマイシンを闇で買ってきて、毎日打ってくださった。「これ高いんでしょう?」 「うん。まぁモルモットやな、あんたは。試しに打っているのだから気にしなくていい」とおっしゃった。
昭和27年、「エンタツの名探偵」の出演料は確か月に手取りで5400円。伯父の家を出て、無一文で独立してから下宿代が千円ほど、それに衣装代や化粧品代を引いていくと、生活は心もとないばかり。そんな折、茶道裏千家の家元夫人、千嘉代子さんのもとへ挨拶にうかがった。ご子息の千宗室さんが在学中にハワイアンバンドで歌っていたことがきっかけで、20代から可愛がってもらっていた。「なんでもっと早く来なかったの」。嘉代子さんはその場で、「あなたは私の秘書」と宣言した。月7千円の給金が出た。着物や洋服を蔵から出して着させ、時にくださった。そしてお茶席の作法からお客様の案内や料亭への心づけの仕方まで教えてくださった。
この後、東京に出た孤独な私を支えてくれた石井ふく子さんの母三升延さんもそうだ。延さんは新派の名優伊志井寛さんの夫人だった。小唄を習い、正月のお雑煮をともに食べさせていただいた。実の母親を早くに失った私は代わりに3人の素敵な母と出会うことができた。
3.杉村春子師
私には演技を教えてくれる芝居の師匠はいなかった。映画や舞台を見て私ならこうするのに、と心の中で批判し、人と違う演技をしようと心がけてきた。同じ女優で心から尊敬し、手本とした人は十代からあこがれた杉村春子先生ただ一人。「木瓜の花」などで3度共演できたことは何より幸せな経験だった。杉村先生の舞台を見るときは手の動かし方、しぐさ一つまで見逃さないようにした。947回も出演された「女の一生」は何度も見た。
84歳で演じられた「女の一生」は忘れられない。最初に少女で出てきた杉村先生は突っ立っていらした。若く見せようと手を使ったりしていたのを全部削ってしまわれた。それでいて、今までより、ずっと少女に見えた。
4.林芙美子役セリフ覚え
母の旅館には全盛期の阪東妻三郎さんがよく遊びに来た。映画「雄呂血」が大ヒットした時は私は5つになるころ。バンツマさんはいつも一人で芸者衆を7,8人を連れてきた。映画会社の人と一緒でも良さそうなのに不思議だった。お帰りなったなった後で行ってみると、字が書かれた障子紙の紙切れがご飯粒か何かであちこちに貼られている。そんなことが2、3度あり、そのうち子供なりにそれがセリフだとわかってきた。恐らくは芸者衆に三味線を弾かせておいて、自分だけは孤独にセリフを覚え込んでいたんだと思う。あそこはどう言おうかと考えつつ。
そのときはヘンな人と思ったけれど、私は女優になって一人でお座席遊びをする理由がわかった。私も努力しているところは人に見られたくない。誰も知らないところで、すっと覚えてきて格好をつけたい(私っていやな女優かな?)。私のセリフ覚えもバンツマさんゆずり。紙を縦に折り、折った紙を横にして自分のセリフだけ書く。相手のセリフは語尾だけ。書くと字の形から覚えられる。何十年も私はそうやってセリフを覚えてきた。「放浪記」のセリフは何度書いたことが。これもバンツマさんのお蔭だ。
もり みつこ 森 光子 | |||||
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本名 | 村上 美津(むらかみ みつ) | ||||
生年月日 | 1920年5月9日 | ||||
没年月日 | 2012年11月10日(92歳没) | ||||
出生地 | 日本・京都府京都市[1] | ||||
死没地 | 日本・東京都文京区本郷(順天堂大学医学部附属順天堂医院) | ||||
血液型 | B型[2] | ||||
職業 | 女優 歌手 マルチタレント 司会者 | ||||
ジャンル | 舞台 テレビ番組 日本映画 | ||||
活動期間 | 1935年 - 2010年 | ||||
配偶者 | リチャード・ウエムラ(1947年)[1] 岡本愛彦[1](1959年 - 1963年) | ||||
著名な家族 | 嵐寛寿郎(従兄) | ||||
事務所 | 寛プロ ⇒ 東宝(東宝芸能) ⇒ 吉田名保美事務所 ⇒ オフィス・モリ | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 『時間ですよ』シリーズ[1] 『天国の父ちゃんこんにちは』シリーズ 『じゃがいも』シリーズ 『おしろい花』 『花吹雪はしご一家』 『せい子宙太郎‐忍宿借夫婦巷談』 『敵か?味方か?3対3』 『熱愛一家・LOVE』 『なぜか初恋・南風』 『かくれんぼ』 『田中丸家御一同様』 『お玉・幸造夫婦です』 映画 『川の流れのように』 舞台 『放浪記』[1] 『おもろい女』 アテレコ 『もののけ姫』 バラエティー番組 『3時のあなた』 CM 『タケヤ味噌』 | |||||
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森 光子(もり みつこ、1920年〈大正9年〉5月9日 - 2012年〈平成24年〉11月10日[3][4])は、日本の女優、歌手、マルチタレント、司会者。日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長、フジテレビジョン番組審議会名誉顧問[5]。国民栄誉賞受賞。栄典は従三位・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・文化功労者・文化勲章。東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都名誉観光大使[6]。
京都府京都市出身。京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)中退。俳優の嵐寛寿郎の従妹である。長らく「寛寿郎の姪で1923年生まれ」としていたが、1984年の紫綬褒章受章にあたり事実を公表し、訂正している。芸名は嵐の母(伯母)から、女優の森静子と伯母の旧姓・森端にちなんで「森」、本名の美津より「光子」とつけられたことによる。