生年月日 | 1932年3月15日 | 私の履歴書 掲載日 | 2008年7月14日 |
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執筆時年齢 | 76 歳 |
1932年3月15日 – 東京都生まれ。小説家、脚本家。長谷川伸門下。『鏨師』で直木賞を受賞後、女の生き方を描いた国際色豊かな家庭物や恋愛物、推理物で人気を集め、他方でテレビドラマの脚本家として多くのヒット作を生み出した。
その後時代小説に専念。永く活躍している。代表作に『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズなどがある。TBS系テレビドラマ『ありがとう』シリーズ、『肝っ玉かあさん』シリーズ、TBS系東芝日曜劇場『女と味噌汁』シリーズ、『下町の女』シリーズやNHK大河ドラマ『新・平家物語』を始めとするテレビドラマの代表作や演劇の脚本を書くかたわら、小説も次々と発表している。
1.宮司の母親の口癖
母親は、私が小学生のころから口癖のように言い続けた。そんな怠け者では親が死んだ後、一人で生きていけませんよ。人の力をあてにしないで何でも自分で一人でやりなさい。一人ぽっちになった時、人に優しくしてもらいたかったら、今から人に優しくしなさい。親はいつまでもあなたの傍にいられないのですから、いつ一人になっても困らないように自分で鍛えておかなければなりません。子供心に母の言葉には真実味があった。
2.書き直し9回
幼稚な私の第1作「女の法案」は戸川幸夫先生によって9回書き直しを指示された。現代の吉原に登楼したらお茶が一杯出てくるだけ、君の書いたように料理屋のようなお膳が次々と運ばれることはない、といったことから始まって、心情描写の曖昧さ、書いている私自身の一人合点、文章の間違いから言葉遣いに対する気くばりまで、1回書き直すたびに細かい注意を受け、また書き直しては、こういうことはない、こうしたことはいけない、と訂正が出る。私の方はなるほどと合点して書き直すだけだが、戸川先生にとってどれほど面倒で厄介な作業であったか、今でも身がすくむ。
時折、困ったように考え込まれ、言葉を選びながら説明され、終わりには必ず、もう一息だ、正念場だよ、と付け加えられた。つまり、先生は「女の法案」という作品をたたき台にして私を小説の本質に何とか近づけようとなさったのだと思う。
3.テレビドラマの脚本
私が「鏨師」で直木賞をいただいたのち、テレビドラマの脚本を書くことを賛成された長谷川伸先生は、その理由を2つ挙げられた。①私が小説の中で書くせりふが観念的で生硬い。生きたセリフを描く勉強には芝居の脚本が早道だが、昨日今日の新人には難しい。②これからはテレビの時代になる。テレビドラマは今の所、参加する人々がみな新人のようなものだ。同じスタートラインに並んでいるなら、こちらの方がやりがいがあるのではないか、と。
しかし最後に、テレビドラマの仕事がやがて順風満帆になったら思い出すことだ。自分は小説を書いて世に出たのだと。鳥が最後に帰っていく巣のことを忘れてはいけない。
4.長谷川先生への夜の見舞客
先生が重病で築地の聖路加病院に入院されたとき、夜も見舞客があった。勿論、規則違反で入院病棟の入口にはナースステーションがあり、そこから先は入れない。そこで捕まってしまうのは、主として昼間は舞台があって、くるに来れない俳優さん達であった。とりわけ、長谷川先生に最も近い方々、新国劇の島田正吾、辰巳柳太郎、歌舞伎の中村勘三郎(十七代目)の諸氏は、長谷川先生を親とも思っている日常なので規則は承知していてもじっとしていられないようで、島田、辰巳のお二人は毎度、ナースステーションのご厄介になった。
看護婦さんの話によると、ステーションでとがめられた時、島田さんは自分がどこの劇場で何時から何時まで舞台に出ているか、休日は全くないし、朝は何時から何時まで楽屋入りをしなければならないとか延々と説明し遂に看護婦さんも根負けし納得して許可してしまう。一方の辰巳さんは言葉もなく看護婦さんを前にしてひたすら頭を下げ、やがて大粒の涙を流して男泣きに泣いて、度肝を抜かれた看護婦さんが病室まで案内してくださったらしい。
また勘三郎さんは、ナースステーションの前をどうやって通り抜けてくるのか、さりげなく病室のドアを開け、ベッドで昏々と眠っていらっしゃる長谷川先生を暫く見つめていて音もなく消えていく。
後に長谷川先生が小康状態になられた時、その話をすると、「三人とも、各々にらしいねえ」と涙ぐんだような目をなさってうなづかれた。
5.教えを受けた人生
もし、私の周囲に、それが人間の成長だと教えてくれる人が居なかったら、私の一生は惨憺たる有様でしかなかったと思う。私には娘を信じてくれた親があり、人が生きるとはどういうことなのか、ご自身の一生を通して教えてくださった恩師、先輩があった。努力をしなければと年中、気合をかけてくれた友人がいた。自分が老いて、かけがえのない大切な人が次々とこの世を去ってしまわれた今、気がついてみると、私には9人の家族ができていた。
平岩 弓枝 (ひらいわ ゆみえ) | |
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文化勲章受章に際して公表された肖像写真 | |
誕生 | 1932年3月15日 日本 東京府東京市渋谷 (現:東京都渋谷区) |
死没 | 2023年6月9日(91歳没) 日本 東京都 |
職業 | 小説家 脚本家 |
国籍 | 日本 |
ジャンル | 時代小説、現代小説、推理小説 |
代表作 | 小説 『鏨師』(1959年) 『女の顔』(1969年 - 1970年) 『御宿かわせみ』シリーズ(1974年 - 2006年) 『花影の花』(1990年) 『西遊記』(2007年) ドラマ脚本 『ありがとう』シリーズ(1970年 - 1973年) 『肝っ玉かあさん』シリーズ(1968年 - 1972年) 『女と味噌汁』シリーズ(1965年 - 1980年) 『下町の女』シリーズ(1970年 - 1974年) 『新・平家物語』(1972年) |
主な受賞歴 | 直木三十五賞(1959年) NHK放送文化賞(1979年) 吉川英治文学賞(1991年) 紫綬褒章(1997年) 菊池寛賞(1998年) 文化功労者(2004年) 毎日芸術賞(2008年) 文化勲章(2016年) 叙従三位(2023年・没時叙位) |
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平岩 弓枝(ひらいわ ゆみえ、1932年3月15日 - 2023年6月9日)は、日本の小説家、脚本家。長谷川伸門下。文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。
『鏨師』(たがねし)で直木賞を受賞後、女の生き方を描いた国際色豊かな家庭物や恋愛物、推理物で人気を集め、他方でテレビドラマの脚本家として多くのヒット作を生み出した。その後時代小説に専念。永く活躍している。代表作に『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズなどがある。