生年月日 | 1932年8月11日 | 私の履歴書 掲載日 | 2020年5月01日 |
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執筆時年齢 | 87 歳 |
1932年8月11日 神奈川県生まれ。女優・文筆家。
1953年から1954年にかけて松竹映画『君の名は』3部作が大ヒット。主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出るほどだった(ちなみに北海道での撮影の合間に、現地のあまりの寒さに横浜で購入して持参していた私物のストールで耳や頭をくるんだ岸のアドリブである)。以降、松竹の看板女優として絶大な人気を誇った。
1954年には有馬稲子、久我美子とともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。
1956年、フランス・日本合作映画『忘れえぬ慕情』に出演。1957年、『忘れえぬ慕情』の撮影がきっかけで、フランス人の映画監督イヴ・シャンピと結婚。挙式はフランスで、川端康成が立会人となった。(文筆家でもあるため、とにかく文章が下記の如くうまかった)
1.恩師・数学団先生
1948年4月、県立横浜第一女子校(現横浜平沼高校)に進学した私は演劇と舞踊のサークルに所属し、週3回、東京銀座の交詢社ビルにあるバレエ教室に通った。
私の得意科目は国語だった。歴史や地理など社会科にも興味は持ったが、数学はゼロ、英語も苦手だった。英語教師は寒川神社のご令息でクラスの誰彼となく随意に指名し、英文を読ませた。
英語や数学はダメだった。すると大好きな担任の数学の団先生に自宅に呼ばれて、こっぴどく叱られた。「君は傲慢なんだよ。頭はすこぶる良い。他の科目も申し分ない。だから苦手な数学をやらなくて良いとタカをくくっていないか?君にできないはずはないのにやろうとしない。立派な根性だ」。
それでも答案用紙の半分を白紙のまま提出し、数学でまた、ひどい点を取ってしまった。すると、また自宅に呼び出し。自宅でのお説教は20分ほど続いた。ご母堂に出していただいたお茶にも手が出ず、スゴスゴと帰る私を玄関の外まで見送ってくれた先生が突然、苦しげにせき込んだ。振り返った私が見たのは先生の優しい笑顔だった。
「根性を通せ。君には多くの才能がある。好きなことをやれ。人生は短いんだ。苦手なものはやらなくていい」。「え?」。
この日、私が出した初めての声だった。先生は微笑んだまま傾いた夕陽を背負って立っていた。学生時代も、今も、数字というものにはなじめないでいる。その後、社会に出た私が心からお礼を言いたいと思った時、先生はこの世にいなかった。「人生は短いんだ。好きなことをやれ」と言った先生は胸を病み、あまりにも早く旅立ってしまったのだ。
2.別居と離婚
夫(イヴ・シャンピ)に女性の影を見抜いた10歳の娘が失踪し、探し出して娘の傷心の理由を聞いた私はショックに体が震えた。しがみつく娘を抱きとりながら、パリから飛んできた夫の懇願にもかかわらず、私はがむしゃらに離婚を決意した。その日は1973年8月11日、41歳の誕生日だった。
離婚は私の度重なる不在が原因だったことをみんなが思い、誰も口に出さなかった。カトリック教徒が多いフランスでの離婚は長引く。離婚成立の前に「別居」という制度があり、私はそれを取り入れた。祖国を離れ、未知の街パリへ着いた日から18年たった1975年5月1日。スズラン祭りの日差しが凱旋門を紅に染めた時、我が家と思って住んだ夫の家を去った。
娘、愛犬ユリシーズ、そして嫁入り道具の三面鏡を乗せた自動車のバックミラーに滂沱として涙を流す夫の姿が揺れながら遠のいていった。
5月1日はメーデー。開いている店は花屋と酒屋と菓子屋だけ。自動車に詰めるだけ積み込んだ本を重ねてテーブルを作り、「寿」と染め抜かれた赤いちりめんの風呂敷を掛けた。職人さんが忘れたらしいトンカチで、私は即席テーブルを叩きながら、調子っぱずれな声でよさこい節を歌った。
私を見かねたのか、娘と仲良しのナタリーがシャンパンを買ってきて乾杯してくれた。「ママンの新しい人生のために」・・・。「18年前の今日、私は日本という祖国から独立したの。今日はかけがえのない夫からの独立なの」。私はポロポロ涙を流してキラキラと笑った。濡れた瞳の娘が背中に隠していたらしいスズランの花束を私に放り投げるようにくれた。そこには娘の万感こもる思いがあったのだろう。
この時の法律は私が父親でないので娘に日本国籍をくれなかった。以降、娘が結婚するまで私は女盛りを働きながらパリで過ごすことになった。