生年月日 | 1951年4月02日 | 私の履歴書 掲載日 | 2013年5月01日 |
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執筆時年齢 | 62 歳 |
1951年4月2日 – 、広島県生まれ。女子プロゴルファー。樋口久子らと日本女子ゴルフの基盤を築いた名選手。
日本女子ゴルフツアーで44勝、アメリカLPGAツアーで17勝。日本ツアーの永久シード権を獲得しているほか、1987年には、アメリカ人以外で史上初のLPGAツアー賞金女王になった。
ソフトボールの強豪・愛媛県今治明徳高校に特待生として進学。同高校卒業後、ソフトボール部を創部した大和紡績福井工場(1995年9月閉鎖)に就職。サウスポーの剛球エース兼4番として1971年、和歌山国体で優勝。
プロデビュー一年目の1975年、美津濃トーナメントで初優勝。杉原輝雄が「オレより30ヤードは飛ぶね。いやになる」と言う程で、ソフトボールで鍛えた強いリストと強靭な腰のバネで、男子プロ並みの飛距離、豪打で鳴らした。
1.ソフトボールからゴルフに転向
大和紡績に入社2年目(1972)の10月、和歌山国体の決勝で住友金属を延長戦の末に1-0で破り、初の全国制覇を果たした。延長9回を投げ抜き、さよならヒットを打ったのも5番の私だった。国体優勝で自分の仕事は終わったと思い、野田監督に退部を申し出た。「下の人間が育つまでもう1シーズンやってくれ」と慰留されたが、とことん嫌気がさしていたからだった。ソフトボール部には「禁酒・禁煙・禁男」の規則があったが、私は全部破っていた。退部して、しばらくぶらぶらしていると、労務課長に「おまえ、これからどうするんだ」と呼び出され、工場に隣接したゴルフ練習場勤務を言い渡された。練習場は250ヤードあり、6ホールのショートコースも備えていた。わけの分からないまま、掃除などの仕事をしていたら、1,2週間後にソフトボール部の堀正治部長に「おまえ、ゴルフやってみるか?運動しないと太るし体に悪いぞ」と言われた。ゴルフの「ゴ」の字も知らなかったが、12月初旬、堀さんらについて芦原ゴルフクラブ(福井)に行った。冬晴れで、潮風の匂を嗅ぐと故郷が懐かしく思い出された。
1週間後、練習場の支配人に「ちょっと打ってみろ」と貸しクラブの9番を渡された。パーンと打ったら、打球の勢い、音が凄く、見ていたみんなが「オーッ!」と声を上げて驚いた。2,3球打って「どうする?」ということになり、私は「じゃあ、ゴルフをやります」。そして週に一度、芦原GCのヘッドプロ・岡本昭重先生に教わりながら、雪のない大阪・池田カントリー倶楽部への入社が決まった。
2.初優勝
プロ初優勝は、1975年11月12日、美津濃トーナメント(千葉)である。2日目の最終日、私は樋口久子さん、大迫たつ子さんと最終組でプレーした。私の5,6歩前を歩いていた樋口さんが聞こえよがしに、「岡本って、飛ぶ、飛ぶと言われるけど(大迫)たっちゃんより飛ばないじゃん」。これも駆け引きの一つなのだろうが、ちょっとびっくりした。
1打リードして迎えた18番。樋口さんが3mのバーディチャンスにつけ、私はピン奥8mに乗せた。難しいフックラインで、私が外して樋口さんが決めればプレーオフだったが、ポンとバーディパットを決め、プロ1年目で初勝利をつかんだ。ホールアウト後、「握手するところを撮らせて」と言われたが、樋口さんはカメラマンに向かって「嫌よ、なんで握手しなけりゃいけないのよ」。結局、握手を交わすのだが、あの言葉は強く印象に残っている。
3.米国ではマナーの悪い選手もいる
英語もろくにできなかった私だが、米ツアーでは構わず相手の懐に飛び込んでいった。溶け込もうとする気持ちがあれば、単語を並べジェスチャーを交えるだけで何とかなる。米国は国土も広いだけに驚くことに事欠かない。
(1) ある試合で、2番ホールだったか。ティーショットを打って歩いていたら、第2打地点で同じ組の選手がいきなりキャディーに小切手を書いて手渡した。「ファイア」、クビである。そしてロープ外のギャラリーを手招きしてバッグを担がせたのだ。
(2) プレー進行がつかえて必ず3,4組待つホールがあった。ある朝、ロリー・バーガシーがピザ店に「〇時に〇番ホールに出前して」と電話、みんなでピザを食べたという。
(3) 試合中にアルコールを飲みながらプレーする人もいた。トイレに入った隣から「プシュッ」と缶ビールを空ける音がした。
4.異能なライバルたち
米ツアー選手はみんな個性的だ。スポーツ大国だけに、小さい頃からテニスやバスケットボール、水泳などいろいろなスポーツになじんでいる。パティ・シーハンやパット・ブラドリーはスキーの五輪候補選手で足腰が強く、パーンと打つとちょっと吹き上がる男子のような力強い球筋に驚かされた。ジェーン・ゲティスは頭脳明晰で弁護士資格を取得、女子ゴルフ協会のアドバイザーも務めた。ベッツィー・キングは信仰心が篤く社会奉仕活動に熱心。ゴルフ場のロッカー室でキリスト教の集会を開いて協会に禁止されたこともあった。
5.米賞金女王に
腰痛からカムバックした1986年は2勝。翌87年はシーズン当初から好調だった。9月のネッスル世界選手権に勝ち米ツアー通算11勝目、シーズン自己最多の4勝目マークし賞金ランクを2位に上げた。11月の米ツアー最終戦、マツダ・ジャパンクラシックを前に、ランク一位のベッツィー・キングとは8300ドル差だった。逆転女王へ願ってもないチャンス。決戦の朝、あまりの緊張感で胸が押しつぶされそうだった。深呼吸してバーンと打ったらボールはまっすぐ飛び、震えは収まった。試合展開は殆ど記憶にない。森口裕子さんが優勝、私が2位で、年間最優秀選手賞も手中にした。
Ayako OKAMOTO | |
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岡本 綾子 (2005年4月23日撮影)[1] | |
基本情報 | |
名前 | 岡本 綾子 |
生年月日 | 1951年4月2日(73歳) |
身長 | 165 cm (5 ft 5 in) |
体重 | 65 kg (143 lb) |
出身地 | 広島県東広島市安芸津町 (旧豊田郡安芸津町) |
経歴 | |
プロ転向 | 1974年 |
成績 | |
優勝回数 | 62回(日本女子:44回、 全米女子:17回、欧州女子:1回) |
初優勝 | 日本女子:美津濃ゴルフトーナメント (1975) 全米女子:アリゾナ・コパー・クラシック (1982) 欧州女子:ドイツ女子オープン (1990) |
賞金王 | 日本女子:1981年 全米女子:1987年 |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2005年 |
選出部門 | 国際投票 |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2014年 |
選出部門 | プレーヤー |
2011年5月9日現在 |
岡本 綾子(おかもと あやこ、1951年4月2日 - )は、広島県豊田郡安芸津町(現:東広島市)出身、同在住[2]の女子プロゴルファー[2]、ゴルフ指導者。樋口久子らと共に日本女子ゴルフの基盤を築いた名選手である[3][4][5]。日本の女子選手で初めて本格的にアメリカLPGAツアーに参戦した選手としても知られる。
日本女子ゴルフツアーで44勝、アメリカLPGAツアーで17勝[6][7]。日本ツアーの永久シード権を獲得しているほか、1987年には、アメリカ人以外で史上初のLPGAツアー賞金女王になった[6][8][9]。