生年月日 | 1920年6月17日 |
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「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』などがある。
原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正が続く。小津監督は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。
大林宣彦監督 (女優論より)
―原節子、高峰秀子は「3メートルの眼」を意識していたー
*かっての女優がなぜスクリーンで輝きを放っていたか?それは彼女たちに「映画女優」であるという自負があったからでしょう。テレビや舞台の女優と「映画女優」の違いとは何か? それは目の演技「眼技」に集約されます。
映画では、女優の顔がアップになった時、片方の眼の横幅はスクリーン上で3メートルにもなるわけです。女優は自分の眼が「3メートルの眼」であることを意識して、瞳にキューと力を絞り込む。その強い目が観客をしびれさせるんです。
映画女優たちは、輝きのタイミングさえ考えて演技をします。原節子、高峰秀子ら往年の女優たちの時代は、2分、3分と瞬きをしない訓練を平気でしていたんです。こうした体験をしている女優さんは、浅丘ルリ子や吉永小百合あたりが最後ではないでしょうか。
秋山庄太郎(写真家)「私の履歴書」1993年6月掲載から「原節子と高峰秀子」
私は大正9年(1920)6月8日生まれ、節ちゃんより9日だけ兄貴、同世代でもあり「映画界嫌い」で共鳴して、話しやすかった。私は「原節子番」のカメラマンとして認められるようになる。節ちゃんはなかなか酒好きだった。それももっぱらビールであった。ロケ先で二人は二日酔いしたが、彼女は撮影時には微塵もなし。
彼女は被写体として、あれほど撮りにくい女優もいなかったと言っていい。まず第一に、ポーズが取れない。すぐ動いてしまう。大型のカメラでは撮れないので、彼女のときだけは、小型に替えていた。理由は、本人は大変な照れ屋だったのである。しかしそこが、原節子の原節子だったゆえんだろう。
全く対照的な女優がいて、一方が天性の「撮られ下手」とするなら、こちらは生まれついての「撮られ上手」といえる。それは、デコちゃんこと高峰秀子さんだった。ポーズはピタリと決めるし、全く申し分なかった。
はら せつこ 原 節子 | |||||||||||
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『画報現代史 第3集』(国際文化情報社、1954年) | |||||||||||
本名 | 會田 昌江(あいだ まさえ) | ||||||||||
生年月日 | 1920年6月17日 | ||||||||||
没年月日 | 2015年9月5日(95歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)[1] | ||||||||||
死没地 | 日本・神奈川県 | ||||||||||
身長 | 165 cm[2] | ||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||
活動期間 | 1935年 - 1963年 | ||||||||||
配偶者 | なし | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
『わが青春に悔なし』(1946年)[1] 『安城家の舞踏会』(1947年) 『お嬢さん乾杯』(1949年) 『青い山脈』(1949年)[1] 『晩春』(1949年) 『麦秋』(1951年) 『めし』(1951年) 『東京物語』(1953年)[1] 『秋日和』(1960年) | |||||||||||
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原 節子(はら せつこ、1920年〈大正9年〉6月17日 - 2015年〈平成27年〉9月5日)は、日本の女優[1]。神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)出身。本名は會田 昌江(あいだ まさえ)。
戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優のひとりで、「永遠の処女」と呼ばれた。『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)などの小津安二郎監督作品の出演で知られ、ほか『わが青春に悔なし』(1946年)、『青い山脈』(1949年)、『めし』(1951年)などに出演した。