生年月日 | 1943年12月11日 | 私の履歴書 掲載日 | 2018年10月01日 |
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執筆時年齢 | 74 歳 |
1943年12月11日 - 東京都生まれ。ヴァイオリニスト。白系ロシア人音楽教師の小野アンナと、桐朋学園子供のための音楽教室の斎藤秀雄に師事。少女時代に来日したヨーゼフ・シゲティとダヴィッド・オイストラフの演奏会を訪れ、ヴァイオリニストの道を志す。
中学生からロシア語を独学し、17歳でレニングラード音楽院に留学し、ミハイル・ヴァイマンに師事する。
ジュリアード弦楽四重奏団のロバート・マンに入門すべく渡米し、ニューヨーク州のジュリアード音楽院に留学、名伯楽で知られるドロシー・ディレイ教授にも師事。
さらにニューヨークから渡欧して、スイスはモントルーにてヨゼフ・シゲティとナタン・ミルシテインの薫陶を受ける。シゲティ他界後もモントルーに暮らし、最晩年のチャップリンやココシュカとも親交を結んだ。
恩師シゲティが愛したロマンティックなレパートリー(チャイコフスキー、ブルッフ、シベリウスの協奏曲、小品集)の演奏・解釈に特色がある。師シゲティやミルシテインと同じく、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを得意とする。
1.アンナ先生
私は、4歳から自由学園幼児生活団でバイオリンを始めたが、それは演奏の初歩にすぎなかった。「先生について本格的に習った方が良いのでは」と周りに勧められ、小野アンナ先生を紹介された。
アンナ先生は帝政ロシアの貴族出身で、ロシア革命の最中に動物学者の小野俊一さんと結婚し、混乱を避けて1918年に来日した。小野さんはジョン・レノンの妻、オノ・ヨーコさんの伯父に当たる。
私は1949年12月、もうすぐ6歳になる頃、母に手を引かれて飯田橋駅近くのアンナ先生のお宅を訪ねた。アンナ先生は透き通るような青い目で私の目をまっすぐ見て言った。「良いバイオリニストになるには、毎日一生懸命に練習しなければいけません」。私はコクリとうなずいた。
この日から月曜と木曜の週2回、アンナ先生のレッスンが始まった。先生はことのほか時間に厳しく、遅刻などありえないという雰囲気を漂わせていた。日本の盆や正月、祝日などお構いなしにレッスンした。
正月に大雪が降って電車が止まり、代わりに乗ったバスが途中で立ち往生。そこから雪道を走りに走った記憶もある。私のバイオリン人生はこんなふうに始まった。
2.斎藤秀雄先生
中学生になると、小野アンナ先生のレッスンと並行して東京都調布市の仙川にある桐朋学園「子供のための音楽教室」にも通うようになった。ここで斎藤先生の薫陶を受けることになる。先生から直接手ほどきをしていただけたのは、私の世代がほとんど最後であろう。
「バイオリンに振り回されるな」。チェロの名手でもあった先生によくそう諭された。演奏の技術にばかり気を取られてはいけない。バイオリンは道具にすぎないのであって、大切なのは音楽の本質を伝え聴かせること。それを片時も忘れんじゃないぞ・・・。そんな言葉を何度耳にしたことだろう。
私が17歳の時、レニングラード音楽院が創立100周年を記念して共産圏以外の学生を招くことになり、潮田益子さんと私が幸運にも選ばれた。意気揚々とソ連にやってきたまでは良かったが、私は周囲のレベルの高さに打ちのめされた。自分がバイオリンをやっても意味がないのではないか。暗く落ち込む日が続く。「そんなに泣いてばかりいると、テイコの涙で湖ができるよ」。級友が私的な言葉で慰めてくれた。
「君ねぇ、絶対に人と比べたらいけないよ」。桐朋学園の恩師・斎藤秀雄先生が留学前にかけてくださった言葉を思い出した。当時、私は少しムッとしたのを覚えているが、ソ連には私より上手な学生がたくさんいることを見越しての忠言だったことは、後になって身に沁みて分かった。しかし、若い私は人と比べて落ち込み、涙にくれたのだった。
3.楽器の重要性
近年の私は前向きな姿勢で演奏に臨めていると思う。それは15年前から使っているバイオリン、1736年製のデル・ジェス・ガルネリウスに助けられている面が大きい。楽器だけで演奏の良し悪しが決まるわけではないが、バイオリニストにとって楽器とはそれほど重要な存在なのだ。
ロンドンの楽器商で試奏した瞬間、衝撃を受けた。当時の私は2台のバイオリンを所有し、十分に満足していた。デル・ジェス・ガルネリウスはその2台を足した値段だった。私は還暦を迎え、今後どうすべきか悩んでいた時だった。1台は老後の資金にとも考えていた。
迷いに迷った末、2台を手放し、この1736年製のデル・ジェス・ガルネリウスを手に入れた。これを弾けば、さらに階段を一つ上がれると確信したからだ。新しい楽器はすっかり私になじみ、常にインスピレーションを与えてくれる。あの時の決断が今の私の演奏を支えてくれている。