生年月日 | 1924年10月01日 |
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宝塚歌劇団27期生。同期生に越路吹雪、月丘夢路らがいる。この芸名は養母が信仰する新興宗教の教師が命名した。宝塚入団時の成績は93人中49位
淡島千景と人気を二分し、戦後の宝塚歌劇団第一期黄金時代を支えた。
(新藤兼人「私の履歴書」より)
乙羽さんとは「愛妻物語」で出会い、「原爆の子」で同志となり、男女の関係を結んだ。この時私には妻子があり、乙羽さんは一生日陰の人でいいから、と全身を投げ出してきた。私は善良な妻を裏切ることに苦しみながら、これを受けた。乙羽さんが最初の妻、久慈孝子にそっくりだったからだ。(中略)
乙羽信子とは27年間男女の関係を続け、妻と離婚して、4年後その妻が亡くなり、その翌年結婚した。結婚生活は17年続いた。(中略)
仕事というものは一人ではできない。とくに集団創造である映画はそうだ。そして深く人間関係を結ばなければ思いは達せられない。そうしてふたりは仕事をした。そのために周囲の人を傷つけたことは確かである。わたしは言い訳はしない。自分を正当化したくない。
「女優である乙羽さんの人生の締めくくりには映画出演しかないと思い、以前から計画していた映画「午後の遺言状」を僕が切り出すと乙羽さんも二つ返事で承知した。尊敬する杉村春子さんとの共演を何よりも楽しみにしていたのだ。」
撮影は順調に進んでいったが、乙羽さんの体調は目に見えて悪くなり、9月にロケが終わった途端、ベッドから一人で起きられなくなったという。それ以後、新藤さんが乙羽さんを寝かしつけてから就寝し、翌朝も彼がベッドから介助して起こすよう生活習慣を改めたという。
「日本海の砂浜で最後のシーンを撮ったとき39度の高熱を押しての演技だった。全てが終わり、僕は乙羽さんに駆け寄った。もうろうとしていた乙羽さんは、う
つろな目で見返してきた。40年以上も一緒に映画を作ってきたが、肝臓癌の進行状況から見て、もう乙羽さんを撮ることはないだろう。これが別れの仕事だと思うと、僕は声を掛けられなかった。」
その11月に亡くなるまで、ベッド横に付き添い介護した物語はまさに「愛妻物語」そのものだった感じがいたします。その年の映画賞を総なめにした映画「午後の遺言状」の二人の名女優、乙羽信子・杉村春子さんも今はもういない。
おとわ のぶこ 乙羽 信子 | |||||||||||||||
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1955年 | |||||||||||||||
本名 | 新藤 信子 しんどう のぶこ (旧姓:加治) | ||||||||||||||
生年月日 | 1924年10月1日 | ||||||||||||||
没年月日 | 1994年12月22日(70歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 日本・鳥取県西伯郡米子町(現:米子市) | ||||||||||||||
出身地 | 日本・大阪府 | ||||||||||||||
血液型 | B型 | ||||||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台 | ||||||||||||||
活動期間 | 1937年 - 1994年 | ||||||||||||||
配偶者 | 新藤兼人 | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
テレビドラマ 『太閤記』 『ありがとう』シリーズ 『肝っ玉かあさん』(第3シリーズ) 『おしん』 『浅見光彦ミステリー』シリーズ 映画 『愛妻物語』 『原爆の子』 『安宅家の人々』 『裸の島』 『午後の遺言状』 | |||||||||||||||
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乙羽 信子(おとわ のぶこ[1]、本名・新藤信子〈旧姓・加治〉、1924年〈大正13年〉10月1日[1][2] - 1994年〈平成6年〉12月22日[2])は、日本の女優。愛称は「オカジ」(旧姓より)。