生年月日 | 1937年5月29日 |
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12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。
1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。
1958年4月1日、山口組三代目・田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。
1962年、小林旭と結婚。出会いは雑誌が企画した対談の場だった。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにも関わらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を強引に迫ってきたので、小林は断れず1962年(昭和37年)に結婚した。
ひばりさんの思い出「私の履歴書」から
船村徹 2002年5月28日
恐るべき才能に震えーどんな曲でもその場で完璧―
彼女は譜面が読めなかった。だが、音符の上下動を目で追いながら感覚的にメロディの呼吸まで読みとり、作詞家と作曲家が自分に何を求めているかを瞬時に感じとった。
演歌調とジャズ風に書き分けた二曲を、目の前で声の出し方まで変えてやすやすと歌い分ける年下の女を見ながら、私は震えていた。年齢の差を超えて畏怖の念を覚えた。
率直に言えば、彼女の表現力は私の感性のさらに先を行っていた。こんな歌手には一体どんな曲を書けばいいのか。少しでも手を抜けば、歌唱で完膚なきまでにやりこめられる。ひばりという竜巻に吸い込まれ、自滅するのではないかという恐怖に似た思いが胸をかすめた。
ひばりさんの思い出「私の履歴書」から 藤山一郎 昭和54年12月31日
美空ひばりちゃんと私は親子ほど歳が違う。思えば昭和22年、ひばりちゃんを横浜国際の舞台で見た時は本当に驚いたものだ。私のステージの前にチョコチョコと出て来る達者な女の子にお客様もわれわれ楽屋一同もびっくりしたものである。そして数年のうちにびっくりするようになる。服部良一さんの例の「東京ブギ」などは絶品で、かわいい小さな子がなんとも上手に歌いこなし、しなもつけるので一同捧腹絶倒したのだが、私はこの子は天才だと思った。
美空 ひばり | |
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『映画情報』1957年4月号より | |
基本情報 | |
出生名 | 加藤 和枝(かとう かずえ) |
生誕 | 1937年5月29日 |
出身地 | 日本・神奈川県横浜市磯子区 |
死没 | 1989年6月24日(52歳没) 日本・東京都文京区(順天堂大学医学部附属順天堂医院)[1] |
学歴 | 精華学園女子高等学校 卒業 |
ジャンル | 歌謡曲・演歌・ジャズ |
職業 | 歌手・女優・実業家 |
担当楽器 | 歌 |
活動期間 | 1947年 - 1989年 |
レーベル | 日本コロムビア |
事務所 | ひばりプロダクション |
公式サイト | http://www.misorahibari.com/ 美空ひばり公式ウェブサイト |
美空 ひばり(みそら ひばり、1937年5月29日 - 1989年6月24日)は、日本の歌手・女優・実業家。神奈川県横浜市磯子区出身。横浜市立滝頭小学校[2]、精華学園女子中学校・高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)卒業。
9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍を見せ、自他共に歌謡界の女王と認める存在となった[3]。昭和の歌謡界を代表する歌手であり[3]、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名:加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は「お嬢(おじょう)」。身長は155cm(推定、番組内にて和也談)。