美女と才女
笠置シズ子  
歌手
生年月日1914年8月25日

1914年(大正3年)8月25日 – 1985年(昭和60年)3月30日)は、日本の歌手、女優。戦前から戦後にかけて活躍し、特に戦後は「ブギの女王」として一世を風靡した。特に、躍動感に乏しい楽曲と直立不動で歌うソロ歌手しか存在しなかった戦後の邦楽界に、躍動感のあるリズムの楽曲と派手なダンスパフォーマンスを導入したことで革命的な存在となった。シヅ子の歌は今日に至るまでたびたびカヴァーされ、日本のポップス、あるいはJ-POPに多大な影響を与え続けている。東京ブギウギが特に有名である。

服部良一「私の履歴書」 1981年7月掲載から

笠置シズ子さん

1928年松竹楽劇団の第一回公演「スイング・アルバム」には中川三郎、青山圭男、山口国敏といった人たちも加わったが、この一座に大阪から売出しの人気歌手として参加したのが笠置シズ子で、大変な前宣伝だった。ごった返す稽古場の片隅で、音楽の打合せのために引き合わされたのが彼女との最初の出会いだった。どんなすばらしいプリマドンナかと期待していたら、薬瓶をぶら下げ、トラホームのように目をショボショボさせた女性で、これがスターだとはとても思えない。「よろしゅう頼んまっせ」と挨拶されたが、どこか裏町の子守女かと見違うようだった。

ところが、その夜遅く始まった舞台稽古では、思わず目を見張らされた。鉄砲玉のように飛び出してきてジャズに乗って踊るその動きの派手でスイングのあること・・・昼間のトラホーム目の娘とはまるで別人のような長いつけまつげで激しく歌って踊る。なるほどこれが世間で騒いでいた歌手かと、僕はその日からすっかり笠置君のファンになって、「ラッパと娘」「センチメンタル・ダイナ」などを彼女のためにオリジナル曲を次々に書いた。

 昭和22年(1947)、初めて笠置君に「東京ブギブギ」を歌わせたときは、「とにかくブギは、身体をくねらせてジグザグに動いて踊りながら歌うんだ」と教えたので、彼女は不思議な振りを考え、ステージで披露した。それが大受けで、彼女のステージには有楽町や上野の夜の天使たちまでが、ものすごい声援を送った。「買物ブギ」は昔、大阪の法善寺横丁の寄席で聞いた上方落語の「ないもの買い」をヒントに、村雨まさおのペンネームで歌詞も自分で書き、大阪弁の面白さをねらった。魚屋、八百屋と買い物をする光景を、品物を羅列してギャクに仕立てたわけだが、レッスン途中で笠置君が舌を噛みそうになって「ヤヤコシ、ヤヤコシ」と言い出したのを、そのまま歌詞に織り込んだものである。「ワテほんまによう言わんワ」や「「おっさんおっさん」が当時の流行語になり、昭和25年(1950)に「ブギ海を渡る」のタイトルで笠置君とアメリカ公演に出かけたときは、途中のハワイで街を歩いていると「オッサンオッサン」と呼びかけられて思わず苦笑したものだ。

服部克久「私の履歴書」 2016年11月掲載から

1.「東京ブギウギ」の生まれた環境

父良一がコロンビアに専属作曲家として入ったのは1936年(昭和11)2月、二・二六事件のころだ。長男の僕は同年11月に生まれた。僕が子どものころの家は東京の吉祥寺にあった。今のJR中央線の西荻窪駅と吉祥寺駅の間で、西荻の方が少し近かった。父の回想によれば、ある日、帰りの電車で良いメロディが浮かんだ。吉祥寺駅からタクシーで帰ることも多かったが、西荻で降りて駅前の喫茶店に飛び込んだ。忘れないうちに紙ナプキンを借り、急いで音符を書き連ねた。「東京ブギウギ」はこうして生まれ、大ヒットした。

2.日劇の舞台

戦後(1945)は銀座並木通りの風月堂2階に父の「服部良一音楽事務所」があった。事務所には笠置シヅ子さんや父の妹の服部富子らが所属していた。父は事務所を拠点に内幸町のコロンビアや有楽町の日劇などを行き来していた。日劇でショーがある日は、父や笠置さんたちは早くから楽屋入りしている。僕ら兄弟も事務所で少し遊んでから日劇に向かうのだった。

 戦地から戻った父の初仕事が1946年新春のエノケン一座の音楽監督だったが、日劇で頻繁に仕事をしていた。47年の「ジャズ・カルメン」は名作オペラのジャズミュージカル化という日本初の試みで注目された。笠置さんがカルメン、叔母の富子はミカエラ役で出演している。 僕ら兄弟にとっては、日劇の楽屋は平和な遊び場だった。エノケンこと榎本健一さん、灰田勝彦さん、坊屋三郎さん、益田喜頓さん、山茶花究さんといったスターたちが「坊や、坊や」と可愛がってくれた。順番に挨拶して回ると「おお、来たな」とお菓子がもらえるからオヤツにも困らなかった。

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