生年月日 | 1909年11月29日 | 私の履歴書 掲載日 | 1975年3月05日 |
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執筆時年齢 | 65 歳 |
1909年11月29日 – 1977年3月21日 山口県下関生まれ。女優、映画監督。
1924年に松竹下賀茂撮影所に入所し、野村芳亭監督の「元禄女」でデビュー。
その後、蒲田撮影所へ移籍し五所平之助監督「恥ずかしい夢」で好評を博した後は、生涯250本あまりの映画に出演し、「100年に一度の女優」といわれるトップ女優であり続けた。その間6本の映画を監督した実績を持つ。
戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し、脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技でベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀主演女優賞)を受賞した。主な作品に『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。また、映画監督としても6本の作品を残している。
15歳年上の長兄が戦争忌避で失踪する。次兄は神経衰弱で日光華厳の滝に飛び込む。芸名の田中絹代は失踪の長兄を探すために本名を使う。
1.監督の癖
(1)成瀬巳喜男監督は「黙秘権」、もっと悪いときは「ハイ、きょうはだめですね」とだけ言ってさっさと帰ってしまう。
(2)溝口健二監督は、「反射しましたか」が口癖。溝口組は「さあ、きょうも反射しましょう」。
(3)小津安二郎先生は、「きょうは、おへその下に心があるよ」とか、「きょうは、へそが座っていない」「ヘソが移動している」とかが口癖でした。なんていやらしいことをと、初めのうちは反発しておりましたが、でも慣れるにつれて、役への入り方、役のつかみ方についてのアドバイスとしては、なかなか適切な言い回しだと、だんだんわかってまいりました。
2.芸能界はゲン担ぎ
私は、決して縁起を担いだりするたちではありませんが、この世界では、例えば旅先で火事を見るとツキが回ってくるとか、そういう言い伝えが良くあるものです。
ゲンを担ぐと言えば、母は生きている間、家のお手伝いに厳命して、私には絶対に大根の料理を出させませんでした。役者が大根を食べると、、というわけです。でも私は、後になって、新派の名優だった花柳章太郎先生が、たいへん大根がお好きだと知ってから、喜んで食べるようになりました。それに、住まいのある三浦半島が昔から大根の名産地ですから。
3.「伊豆の踊子」の思い出
映画の「伊豆の踊子」は、私が第1号の主演女優でしたが、戦前はこの1本だけでした。戦後になってからは、美空ひばりさん、鰐淵晴子さん、吉永小百合さん、内藤洋子さん、そして最近山口百恵さんと、5人もの方が踊り子に扮しています。昨年末、山口百恵さんの映画が完成したとき、その試写会に、私も招待をいただいて、原作者の川端康成先生の奥様と並んで拝見しました。映画を見ながら、まず一番に感じたことは、撮影のスタッフが、さぞロケーションにはご苦労なさったろうということだったのです。伊豆の山奥も、今ではすっかり風景が近代化されておりますから。
私たちの当時は、まだ天城山の一帯は、シシやサルが今にも出てきそうでした。五所先生やスタッフは、それをかき分けるようにしながら、ロケハンをなさったのでした。今とは逆の苦労があったと思います。
4.女流監督になる修行(女優の定年を打破したい)
映画女優には、サラリーマンと違って、定年というものはありません。しかし、それよりも、もっと厳しい定年があります。それは、若さには限度があるということです。年齢と共に嫌でも若さは失われます。いったんスターに着いてからというものは、何度か、5年おきぐらいに、心の中に自分の定年を思い定めなければならない転機にぶつかりました。
2年連続で主演女優賞をいただいたご褒美に、昭和24年(1949)12月にアメリカに行くことができました。しかし、帰国後の歓迎パレードなどでアメリカかぶれの投げキッスなどおこなった姿が、ファンの人たちの反感を買うことになり、精神的にずいぶん辛い思いをいたしました。こんな中、女優としての自分の「定年」問題を考えないわけにはいきませんでした。そこで自分が監督になって、自分のできない若い役を、新しいスターに精一杯演じてもらえれば・・という気持ちになって、成瀬巳喜男監督に打ち明け、相談しました。
すると先生は、監督をやりたいのなら、まずその前に、助監督の仕事を経験すべきだろうと、アドバイスをしてくださった。その成瀬監督に、助監督に使ってくださるようお願いすると許可が出ましたが条件があると。
その条件とは、「スター意識は捨てること」「自家用車には絶対乗らないこと」「撮影開始30分前には必ず撮影所入りすること」「セット内では腰を掛けないこと」などで、厳守の誓約でした。
撮影終了まで約2か月かかった現場の仕事を、誓約通り、何とかやり抜くことができました。完成の試写も終わった打ち上げの会で、先生は、「さぁ、また今日からスターに戻るのも自由です。でも監督をやるつもりなら、この何か月を忘れてはいけません」とおっしゃいました。このおかげで第1回監督作品「恋文」を出すことができました。
たなか きぬよ 田中 絹代 | |||||||||||
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本名 | 田中 絹代 | ||||||||||
別名義 | 田中 錦華(たなか きんか) | ||||||||||
生年月日 | 1909年11月29日 | ||||||||||
没年月日 | 1977年3月21日(67歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・山口県下関市関後地村(現在の同県同市丸山町)[1] | ||||||||||
死没地 | 日本・東京都文京区本郷 | ||||||||||
身長 | 152 cm[注釈 1] | ||||||||||
職業 | 女優、映画監督 | ||||||||||
ジャンル | 歌劇、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー)、テレビドラマ | ||||||||||
活動期間 | 1919年 - 1977年 | ||||||||||
活動内容 | 1920年:琵琶少女歌劇に入団 1924年:松竹下加茂撮影所に入社 1925年:松竹蒲田撮影所に移籍 1949年:日米親善使節として渡米、松竹を退社 1953年:『恋文』で初監督 1966年:テレビドラマに初出演 1977年:死去 | ||||||||||
配偶者 | なし | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
出演のみ 『愛染かつら』[1] 『女優須磨子の恋』 『西鶴一代女』[1] 『雨月物語』(1953年) 『安宅家の人々』 『異母兄弟』 『楢山節考』 『おとうと』 『サンダカン八番娼館 望郷』 監督兼出演 『月は上りぬ』(1955年) | |||||||||||
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備考 | |||||||||||
勲三等瑞宝章(1977年) 紫綬褒章(1970年) 芸術選奨文部大臣賞(1974年) |
田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日[1])は、日本の女優、映画監督。本名同じ。旧芸名は田中 錦華(たなか きんか)。
黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。14歳で松竹に入社し、清純派スターとして人気を得て、松竹の看板女優となった。 戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し[3]、脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技でベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀主演女優賞)を受賞した。主な作品に『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。また、映画監督としても6本の作品を残している。
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