生年月日 | 1926年1月08日 | 私の履歴書 掲載日 | 1994年4月01日 |
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執筆時年齢 | 68 歳 |
1926年1月8日 – 島根県生まれ。森は日本を代表するファッションデザイナーのひとりであり、1970年代から1980年代にかけて特に女性から強く支持された。
1965年にニューヨーク・コレクションに初参加。蝶をモチーフにした女性的でエレガントなドレスが受け、マダム・バタフライと呼ばれてファッション界の話題になった。アメリカでの好評を受け、パリ・コレクションにも進出した。その後、洋服だけでなく、ハナエモリのロゴと蝶のマーク(田中一光デザイン)を冠したライセンス商法をスタートさせ、タオルや魔法瓶、トイレのスリッパに至るまで商品数を増やし、事業の幅を広げた。
顧客にはグレース・ケリー(モナコ王妃)、ソフィア・ローレンなどが名を連ねた。
1988年、美空ひばりの病からの復活コンサートでの不死鳥をイメージした衣装をデザインした。
1993年、皇太子妃雅子さまの結婚の儀の際に着用したローブ・デコルテ(胸元を露出した女性の最高礼装)をデザインした。
1948年、学生時代に勤労動員の工場で知り合った元陸軍主計少佐・森賢と結婚する。夫・森賢はハナエモリ元代表。2人の息子のほか、娘がいる。
1.映画はデザイナー学校
映画には様々なタイプの女性が登場する。少女、主婦、キャリアウーマン、あやしい魅力で男性を誘惑する女・・・。同じ女性でも恋をしている時と別れる時では、趣が異なる。そんな女たちを、衣装を通じて表現するのは、たやすいことではない。それだけに、いろいろ苦労は多いが、やりがいのある仕事だった。
最初は日活の「太陽の季節」などから監督さんや俳優・女優さんとの仕事交流が始まったが、やがて日活以外の映画会社からも、衣装の依頼がくるようになった。その時の巨匠は、五所平之助、中村登、小津安二郎、新藤兼人・・・。また大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった当時、ヌーベルバーグと言われた新進気鋭の方々の仕事もさせていただいた。
女優さんでは、大女優だった月丘夢路さんや高峰三枝子さん、新珠三千代さん、乙羽信子さんから、岡田茉莉子さん、岩下志麻さん、南田洋子さん、野添ひとみさん、桑野みゆきさん、雪村いずみさんといったフレッシュなスターまで数多くの方々の衣装を手がけた。
2.NYでデビュー
「日本からの服飾関係者がアメリカで成功した例はない。日本の服は悪くて安ものというイメージが出来上がってしまっている」という理由で、多くの人から反対された。しかし、私はニューヨークで絶対、自分のオリジナルコレクションを発表してみせる。そして哀れな日本のイメージを変えたい。そんな決意がいつの間にか若い私の心の中に育っていた。そのためには、100%日本製の布地と、日本人の職人だけを使って、外国人が見たこともないような新たなデザインを作り上げなければならない。
日本人がインターナショナルな競争の激しいマーケットでデザイナーとしてやっていくには、はっきりとしたアイデンティティーを持っていなければならない。欧米の後追いをしていたのでは注目されないだろう。私は日本人。日本の女。外国のものとは異なった「なにか」を打ち出さねば・・・。
日本製の布地を使って日本人の手で新しいファッションを創り上げていくにはまず、日本の暮らしの伝統の中で育った和服の素材を研究してみる。表面効果のある「鬼しぼりちりめん」は美しいと思った。手触りの重厚さがリッチだ。西陣の帯地には華がある。藍染めの浴衣地は肌触りがさっぱりして独特である。産地を訪ね歩いてあれこれ素材を見、買い集めた。そしてこれらが成功した。
3.デザイナーと女優
ジバンシィ氏は、パリジャンならではのエレガンスを極めたモードづくりで知られる。その作品はオードリー・ヘップバーン主演の映画で有名になった。いつかパリの自宅で、私のためにごく内輪のディナーパーティをして下さった。彼の精錬された美学が暮らしのすみずみまで豪華に統一されている様子に驚いた。当夜のホステスはオードリー・ヘップバーンさんだった。彼女は自分の家にいるように自然にふるまいでもてなして下さった。お化粧は薄く、黒いバギーパンツに白い絹のブラウスを着て、靴はフラットシューズ。その話しぶりはとても知的だった。優しいナチュッナルな笑顔が今でも忘れられない。
オートクチュールのメゾンが自社のモードのイメージづくりのために、著名な女優を起用したケースは多い。イブ・サンローランはカトリーヌ・ドヌーブ、エマニュエル・ウンガロとアヌーク・エーメ・・・。その中でもジバンシーとヘップバーンは、深い信頼関係で結ばれていた。
4.トップマヌカンの条件
顔や体形がいいだけではだめ。むしろその時代の雰囲気をとらえて、出来上がったばかりのフレッシュな服を着こなしてくれる感度と表現力が重要。服装が何を意味しているのかいち早くつかみ取る人が望ましい。
ベテランのモデルたちは姿勢もいいし、自然な体の動きで薄地の絹のスカートが揺れたり、衣ずれの音がきこえているのではないかと感じさせるような優雅な身のこなしを見せてくれる。何げない動きの中で風を受けとめ、服に生き物のような息吹を吹き込んでくれる。
モデルでも生活環境が変わると印象が違ってくる。体の不調や失恋、新しい恋人の出現などは、体や表現にくっきり表れる。現在のモデルは、175cmから180cmぐらい。ほっそりと長くしかも胸や腰のまろやかな女らしさが、時代の女なのである。
5.「お嫁さん」モデル
オートクチュールのショーでは、伝統的にコレクションの最後をウエディングドレスで締めくくる。シーズンの創作の集大成である。私たちは、この華やかな結婚衣装を「お嫁さん」と呼ぶ。
ショーでどのモデルがお嫁さんに選ばれるか・・・。出演するモデルたちの注目の的である。私は仮縫いをしながら、最後に決める。お嫁さんはショーの最後を飾る華である。新しい人生のスタートを切る時の服にふさわしい初々しさが大切だ。
思い出深いのは、小沢ヴェラさん。かっての入江美樹さんである。1960年代に日本で開いていたショーでは、いつも彼女がお嫁さん役だった。1964年、ラスベガスで開かれた国際ファッション・フェスティバルに共に出席したが、彼女が私のデザインした服を着て「世界一チャーミングなモデル」に選ばれたときには興奮した。ヴェラさんは1968年、指揮者の小澤征爾さんと結ばれた。その結婚式のウエディングドレスが彼女に着てもらった最後の「お嫁さん」になった。
映画の女優さんの結婚衣装も何度となく作らせていただいた。監督の吉田喜重さんと結婚した岡田茉莉子さん、南田洋子さんと長門裕之さん、野添ひとみさんと川口浩さん、野球の長嶋茂雄さんと亜希子さんといったカップルのためにそれぞれのウェディングドレスをつくった。
森 英恵 | |
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生誕 | 1926年1月8日 日本・島根県 |
死没 | 2022年8月11日(96歳没) 日本・東京都 |
出身校 | 東京女子大学 |
職業 | オートクチュールデザイナー |
配偶者 | 森賢 |
子供 | 森顕、森恵 |
森 英恵(森 英惠[1]、もり はなえ、1926年1月8日 - 2022年8月11日)は、日本のファッションデザイナーであり、日本人で唯一のパリのオートクチュールデザイナー。地域経済総合研究所評議員。森英恵ファッション文化財団理事長。位階は従三位。1996年、文化勲章、2002年、レジオンドヌール勲章オフィシエ章を受章。
1965年にニューヨーク・コレクションで成功をおさめ、日本人デザイナーの海外進出の先駆けとなった[2]。1977年には東洋人として初めてパリ・オートクチュール協会(サンディカ)のメンバーとなる[2]。バルセロナおよびリレハンメルオリンピックの日本選手団の公式ユニフォームのデザインや、歌舞伎[3]、海外のオペラやバレエの舞台衣裳を担当するなど、ファッション界の第一人者として活躍した[2]。2004年7月のパリ・2004 A/Wオートクチュール・コレクションで引退[2]。