生年月日 | 1906年1月06日 | 私の履歴書 掲載日 | 1968年6月27日 |
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執筆時年齢 | 62 歳 |
1906年(明治39年)1月6日 – 1997年(平成9年)4月4日 広島県生まれ。
築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け、演劇史・文化史に大きな足跡を残した、日本を代表するカリスマ女優
1963年1月、杉村の感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、加藤治子、小池朝雄ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し、現代演劇協会・劇団雲を結成。さらに同年12月には、それまで杉村主演の戯曲を何本も書いていた三島由紀夫の新作戯曲上演拒否問題(喜びの琴事件)が起こって、三島を筆頭に丹阿弥谷津子、中村伸郎、賀原夏子、南美江ら、文学座の古参劇団員が次々に脱退していった。
文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎えたが、太地喜和子、江守徹、樹木希林、小川真由美、高橋悦史ら若手を育てることで何とか乗り切った。とくにテレビ時代を迎えていた時流に乗って、次々にテレビに新人を送り込んだ功績は大きい。
*杉村は多くの演劇人の目標であった。
森光子は「演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です。時代劇の娘役の頃からいつか近づきたいとひそかに思い続けてきました」と話している。
高峰秀子もやはりこの映画のハンセン病に罹った娘役を演じた杉村の演技に感動、「仕方なしにやっていた(本人談)」役者稼業に以後本気で取り組むようになったという逸話も残す。
成瀬巳喜男監督『流れる』で共演した山田五十鈴は、「あの映画の杉村さんの芝居は、ぜんぶ杉村さんがお考えになったもの。そういうことが許されるようになった時代です。それこそ役者の力量が問われる時代になってきたんです」と述べている。
勝新太郎は杉村を大崇拝し、「杉村と共演した勝は『はい、はい』と杉村の言うことは何でも聞いていた」と石井ふく子は話している。そして石井は「杉村先生の凄さは、喜怒哀楽を後ろ姿で表現でき、しかもそこに若々しさと品があるところでしたね。こればっかりは、他の女優さんがどんなにまねをしたくてもできないことだと思います」と述べている。
ミヤコ蝶々(女優:1998年(平成10)2月掲載)は
杉村春子:新劇の人らしく、怖いほど形がピシッと決まっていた。人柄もあるのだろうが、吐く息まで決まっている感じだったと。
1.苦労時代の舞台のやり直し:
昭和25年、自分たちのおけいこ場が欲しいという切なる願望を抱いて、その建設資金を得ようと、地方公演にも出かけ、企業にも公演賛助をお願いした。八幡製鉄がご厚意で、4月「女の一生」を10日間50万円で買ってくださった。しかし、実は家族慰安会で、新劇なんて一度もみたこともない人たちが多く、子供は場内を駆け回り、赤ん坊は泣く、折詰を開いた一杯機嫌おじさんとおばさんは今にも踊りださないにぎやかさ。話し声、笑い声、その喧騒の中で芝居は始まった。
私はじっと我慢を重ねましたが、ほっておけば、この喧噪、いつやむかわかりません。私は発作的に、芝居を中止して舞台端へ飛び出しました。そして精一杯の声で叫んだ。「みなさん、おねがいします。私たち、一生懸命、いいお芝居を見ていただこうと思ってまじめにやっています。どうかお静かになさってください!心からお願い申します。もう一度、初めからやり直します」。
そして登場者全員に向かって、「すみませんが、初めからもう一度やってください」と頭を下げました。
みんなは快くそれを承知してくれました。こうして前代未聞の、いったん幕を閉めて、また初めからやり直しの「女の一生」が開幕しました。自分たちの修練の場、アトリエ建設という意欲に燃えて、打って一丸となっていた当時の全座員の情熱を思い出すとき、今でも胸が熱くなります。
2.結びの言葉
文学座創立以来ことし(昭和43年)で31年、創立のときは、まだこの世に誕生していなかった若い座員が、130名あまりの全座員の過半数を占めています。そこで私も過ぎた日のことはもう考えずに、この若い人たちとがっちり手を組んで、勇気をふるって歩き続ける決心をしています。
「誰が選んでくれたんでもない 自分で選んで 歩き出した道ですもの
間違いと知ったら 自分で間違いでないように しなくっちゃ・・」
「女の一生」の布引けいのセリフですが森本薫さんが、私という役者、いや、私という人間のために書いて下さったことばなのかもしれません。
すぎむら はるこ 杉村 春子 | |||||||||||||||
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本名 | 石山 春子 | ||||||||||||||
生年月日 | 1906年1月6日 | ||||||||||||||
没年月日 | 1997年4月4日(91歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 日本・広島県広島市 | ||||||||||||||
死没地 | 日本・東京都文京区 | ||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||
血液型 | O型 | ||||||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||||||
ジャンル | 舞台、映画、テレビ | ||||||||||||||
活動期間 | 1927年 - 1997年 | ||||||||||||||
配偶者 | 1. 長広岸郎(1933年 - 1942年、死別)[1] 2. 石山季彦[1](1950年 - 1966年、死別) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画 『東京物語』(1953年) 『秋刀魚の味』(1962年) 舞台 『女の一生』 『欲望という名の電車』 『鹿鳴館』 『華岡青洲の妻』 | |||||||||||||||
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杉村 春子(すぎむら はるこ、1906年〈明治39年〉1月6日 - 1997年〈平成9年〉4月4日[1])は、広島県広島市出身の新劇の女優[出典 1]。本名:石山 春子。旧姓:中野[4]。
築地小劇場より始まり文学座に至る日本の演劇界の屋台骨を支え続け[出典 2]、演劇史・文化史に大きな足跡を残した、日本を代表する女優[出典 3]。称号は東京都名誉都民。
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