生年月日 | 1920年2月12日 | 私の履歴書 掲載日 | 2004年8月01日 |
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執筆時年齢 | 84 歳 |
1920年(大正9年)2月12日 – 2014年(平成26年)9月7日 中国、奉天生まれ。
歌手、女優、政治家である。さまざまな名前で活動し、戦前の中国(中華民国)と満州国・日本・戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン)、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチ (Shirley Yamaguchi) の名で映画、歌などに活躍した。日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。
満州映画協会の二代目理事長の甘粕正彦の引き立てもあり、清朝王族の第14王女で「男装の麗人」「東洋のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた川島芳子や日本の政界、財界、軍部官僚などとの交流が時代に押し流されるように続いた。
そして終戦。彼女はそれまでの行為・行動に対して、国民政府軍から漢奸裁判にかけられる可能性が出てきた。漢奸とは、中国人でありながら国を裏切り外国の手先となった者で、最高刑は死刑である。罪状は、彼女が中国人女性として「大陸3部作」などに出演し、日本人の若者に恋する役割を演じて中国に屈辱を与えたというものだった。彼女が無罪を勝ち取るには「李香蘭は日本人である」という物的証拠が必要だった。
これを、奉天時代の幼なじみのユダヤ系ロシア人であるリューバが助けてくれた。リューバは戦勝国ソ連の国民であるため、行動が自由で北京で収容されている彼女の父親から「戸籍謄本」を彼女に送ってくれ、無罪判決を得ることができた。まさにリューバは彼女にとって「命の恩人」だったが、考えれば不思議なつながりでもあった。しかし、川島芳子は「日本人である」という戸籍謄本を入手できなかったため、銃殺刑となったのだった。
1.川島芳子(男装の麗人)と会う
昭和12年(1937)の夏休みは天津の市長公邸で過ごした。ちょうど滞在中だった父が日本人租界にある中国料理店「東興楼」のパーティに連れて行ってくれた。中庭に人の輪ができている。その中心で黒い男物の旗袍(ちーぱお)を着て談笑しているのが、東興楼の女主人、川島芳子さんだった。
清朝王族第十代粛親王善耆(ぜんき)の第十四代王女、愛新覚羅顕玓(けんし)として生まれたが、粛親王の友人川島浪速の養女となって長野県の松本で育った。清朝復興のために中国に渡り、安国軍指令、金璧輝として熱河作戦に従軍した。
「男装の麗人」「東洋のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれて一時は部下数千ともいわれたものの、私があった時はその振る舞いから軍に退けられ、辛うじて軍の世話で東興楼を経営していた。
父が私を紹介すると、川島さんは言った。「同じヨシコとは奇遇だ。僕は小さいころヨコちゃんと呼ばれていたから、君のことをヨコちゃんと呼ぶよ。僕のことはお兄ちゃんと呼べよ」。きれいな日本語だった。
2.甘粕正彦・満州映画協会理事長
昭和14年(1939)11月、甘粕さんが満映の二代目理事長になった。元憲兵大尉で大杉栄氏などを虐殺し、2年10か月の服役で出獄。また中国に来て、清朝の廃帝、愛新覚羅溥儀を天津から満州へひそかに護送し、情報・治安活動などを通じて満州国家の功労者となっていた。
そんな人物が乗り込んできて、満映をどうしようというのか。満映の社員、俳優たちはみんなそう思った。ところが、甘粕さんは着任すると中国人俳優の給料や待遇を大幅に引き上げ、要人をもてなす宴会に女優を侍らすことお辞めさせ、高価なドイツ製カメラを購入するなど、社員の士気を高める方策を次々に打ち出した。
内地から鈴木重吉、木村荘十二といった監督や松浦健郎らシナリオ作家を招聘し、国策の枠内であったが中国人が楽しめる映画作りに采配を振るった。そしていつしか「満映の父」と呼ばれるまでになった。
個人的にお話したことはあまりないが、甘粕さんが風邪で寝込んだある冬、お粥を持ってホテルの部屋に持って行ったことがある。甘粕さんは「すみません」と言いながら照れくさそうな笑みを浮かべた。謀略とテロのイメージで縁取られた人物が浮かべた照れ笑いを、私は奇妙な印象とともに記憶している。
3.彫刻家イサム・ノグチと結婚
ハリウッドの映画にも出演し、有名俳優ユル・ブリンナーさんやノーベル賞作家のパール・バックさんなどの知遇を受けることになった。何かのパーティで長身、面長の人物を紹介された。詩人野口米次郎を父に持つ日系二世の彫刻家イサム・ノグチだった。私より15歳年上で、そのとき45歳だった。戦時中、米国では日系人はただそれだけで収容所に入れられた。私も日中両国のはざまで苦悩した。短い言葉だったが、何か通じ合うものを感じた。
デートを重ねるうちに彼は結婚のことを口にした。結婚は1年後ということで婚約した。婚約中、二人でチャーリー・チャップリンさんのホームパーティに招待された。おみやげはこいのぼりだった。日本が好きだったチャーリーはこいのぼりを知っていた。子供たちを集め、やがて台所からリビングまでこいのぼりを持って全力で走りだした。風をはらんで泳ぐところを見せたかったのだ。
私たちは昭和26年(1951)12月に結婚した。イサムさんの親代わりは猪熊弦一郎画伯夫妻、私の親代わりは川喜多長政・かしこ夫妻。媒酌人は梅原龍三郎画伯ご夫妻にお願いした。
本名 | 大鷹 淑子(おおたか よしこ) |
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別名義 | 李 香蘭[1] 山口 淑子[1](芸名・旧姓) Shirley Yamaguchi(米国での芸名) |
生年月日 | 1920年2月12日 |
没年月日 | 2014年9月7日(94歳没) |
出生地 | 中華民国 奉天省遼陽県北煙台(現在の遼寧省灯塔市)[1] |
死没地 | 日本 東京都千代田区一番町 |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 (本籍:佐賀県杵島郡北方町〈現在の武雄市〉) |
ジャンル | 映画俳優、歌手 |
活動期間 | 1938年 - 1958年 |
配偶者 | イサム・ノグチ(1951年 - 1956年) 大鷹弘(1958年 - 2001年死別)[1] |
主な作品 | |
『白蘭の歌』 『支那の夜』 『熱砂の誓ひ』 |
李 香蘭 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 李 香蘭 |
簡体字: | 李 香兰 |
拼音: | Lǐ Xiānglán |
和名表記: | り こうらん |
発音転記: | リ・シャンラン |
英語名: | Shirley Yamaguchi |
大鷹 淑子[2] おおたか よしこ | |
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前職 | 女優、歌手、司会者 |
所属政党 | 自由民主党(田中派→宮澤派) |
選挙区 | (全国区→) 比例代表 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1974年7月8日 - 1992年7月7日 |
山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年〈大正9年〉2月12日[3] - 2014年〈平成26年〉9月7日[1])は、日本の歌手、女優、政治家である。本名は大鷹 淑子(おおたか よしこ、旧姓:山口)。翊教女学校卒[1]。
さまざまな名前で活動し、中華民国と満洲国、日本、戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン)、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチ(Shirley Yamaguchi)の名で映画、歌などで活躍した。日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で、中華民国の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。
帰国後は、山口淑子名義で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をした[1]が、1958年(昭和33年)に結婚のため、芸能界を引退し、1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年(昭和49年)3月まで務めた。1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間、参議院議員を3期務めた[1]。2006年に日本チャップリン協会[4](会長大野裕之)の名誉顧問に就いた。