生年月日 | 1897年11月28日 |
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1897年(明治30年)11月28日 – 1996年(平成8年)6月10日)は、大正・昭和・平成にかけて活躍した日本の小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、梶井基次郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。『生きて行く私』は自伝的小説として以後宇野の代名詞となる。晩年に到るまで旺盛な活動を続けた女性実業家の先駆者としても知られる。結婚離婚を繰り返すたびに家を建て替え、「数えて見ると、十一軒建てた勘定になるから」と、それを『私が建てた家』という随筆にしてしまったり、長寿で、それを『私何だか死なないような気がするんですよ』という書名のエッセイにまとめてしまったりする愛嬌があった。
天 風 先 生 と 私 (志るべ:天風会の歩み) 昭和48年(1973)10月17日
天風先生がお亡りになってから、もう五年になる。私は先生がお残しになったものを、あれこれと思ひ出すたびにどうして自分は、もう少し先生のお傍に近寄らなかったかと、それを残念に思ふことがある。
先生のお傍に近寄らうとさへ思へば、機会はいつでもあった。思ひ切って先生のお宅へお伺ひすれば宜かった。講演会のあとさきに、先生のお室へお伺ひしても宜かった。夏の修練会などで、先生がわざわざ私に声をかけてくださったことも1,2度ではなかった。さう言ふとき、私は先生のお声に答えて、すぐお傍へ行けるような性質ではなかった。私はお傍に行く替わりに、少し遠くへ下がった。
私は自分のこの性質をどうすることも出来なかった。私は天風会で何を教はったのだろう。怒らず、恐れず、悲しまず、と教はった。それだのに、私は天風先生を恐れた。いや、恐れたのではない。畏れたのだ。
この心情のあるところは、私の心の遠くにさかのぼる。先生のことと較べて言ったりするのは、適当てないかも知れないが、私は明治の封建的な家庭に育った。父に対しては馴れ親しんだと言ふ記憶がなく、父と言葉を交すときは父が私に何かを命令し、私かそれに答へる場合だけであった。私の父に対する感情は、親愛ではなく、畏敬であった。表現出来ない、或る抽象的な信頼の感情であったと思ふ。
天風先生に対する私の感情は、幾分か、この父に対するものに似てゐる。幸か不幸か、私はいつでも、先生に対して或る間隔をおいてしか、お目にかがらなかった。先生がお亡りになって時間が経つたいま、それを残念に思ふ気持もあるが、しかし、私のこの感情は、先生の偉大さを正確に知るのに、何か欠けるところがあったか、とも思ふ。先生は百年に一人とは現れない偉大な思想家である。先生の思想を実に容易に、人間の持つ感情の凡ゆる層に浸透してもっとも直接に、深く這入り込むものと思ふからである。
宇野 千代 (うの ちよ) | |
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若き日の宇野千代(1930年代) | |
誕生 | 1897年11月28日 山口県玖珂郡横山村(現 岩国市川西) |
死没 | 1996年6月10日(98歳没) 東京都港区虎ノ門(虎の門病院)[1] |
墓地 | 山口県岩国市教蓮寺 |
職業 | 小説家、随筆家、編集者 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)卒業 |
活動期間 | 1921年 - 1996年 |
代表作 | 『色ざんげ』(1933年 - 1935年) 『人形師天狗屋久吉』(1942年) 『おはん』(1947年 - 1957年) 『刺す』(1966年) 『或る一人の女の話』(1971年) 『生きて行く私』(1983年) |
主な受賞歴 | 野間文芸賞(1957年) 女流文学賞(1970年) 日本芸術院賞(1972年) 勲三等瑞宝章(1974年) 菊池寛賞(1982年) 文化功労者(1990年) 勲二等瑞宝章(1996年,没後) |
デビュー作 | 『脂粉の顔』(1921年) |
配偶者 | 藤村亮一(1911年 - 不明) 藤村忠(1919年 - 1924年) 尾崎士郎(1926年 - 1930年) 北原武夫(1939年 - 1964年) |
パートナー | 東郷青児(1930年 - 1934年) |
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宇野 千代(うの ちよ、1897年〈明治30年〉11月28日 - 1996年〈平成8年〉6月10日)は、大正・昭和・平成にかけて活躍した日本の小説家、随筆家。多才で知られ、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持った。作家の尾崎士郎、梶井基次郎、画家の東郷青児、北原武夫など、多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、その波乱に富んだ生涯はさまざまな作品の中で描かれている。日本芸術院会員。