美女と才女
奥むめお  
主婦連会長
生年月日1895年10月24日
私の履歴書  掲載日1958年1月24日
執筆時年齢62 歳

1895年10月24日 – 1997年7月7日 福井県生まれ。
1895年10月24日 – 1997年7月7日)、婦人運動家、政治家。参議院議員を計3期務めた。
年少時から婦人労働問題に強い関心を示し、1916年(大正5年)日本女子大学校卒業後、労働組合期成会の機関紙『労働世界』の記者になり、身分を偽り富士瓦斯紡績に一女工として潜入取材したレポートが反響を呼んだ。
議員活動の傍ら1948年(昭和23年)には新団体・主婦連合会の会長に就任。
エプロン(割烹着)としゃもじを旗印に、不良品追放や『主婦の店』選定運動を全国展開した。1956年(昭和31年)、千代田区六番町に主婦会館を建設し初代館長となり、消費者・婦人運動を終生指導し続けた。
初当選の際に国民協同党所属議員だった縁で、当時同党の書記長だった三木武夫(後に首相)夫人の三木睦子が葬儀委員長を務めた。

1. 女工の体験
女工の体験を持ちたいと思い立ったら矢も楯もたまらず、郷里の親類の娘の戸籍謄本を送ってもらって、女工採用のビラを目当てに本所大平町の富士瓦斯紡績工場の寄宿舎に住み込んだ。この工場は関東大震災でつぶれてしまったが、貧弱な板塀に囲まれた古い建物で、終夜業を終えて朝出て来る人の顔は、まったく地獄からはって出たかと思われるほど青くやつれていた。大きい布団を敷き並べてカヤからはみ出るほどたくさんの娘たちが、頭を突き合わせて寝た。
 夜中に二人も三人もロウソクを立てて蚊を焼いているし、南京虫のあとを爪の音をたててガリガリかいている。食事もさすがの私にもノドがつかえるほどの黒い麦飯にちょぴりお菜がついているだけで、たまには塩じゃけがついたが、何と手際よく骨と皮だけを切り取ったものであろうか。しゃぶるよりほかないのが小さく二切れ、平べったい皿の上にころがっていた。一体、身の肉は誰がどこに持っていくのかとおかしかった。夜勤の人は雨戸を立てて、死人のごとくいぎたなく寝ていた。

2.女子学園を作る
昭和12年(1937)には、高知県に高岡郡産業組合女子学園を作った。各村から一人ずつ若い婦人を選出して1年間の全寮生活で生活指導の技術と理論を教えることになった。村は1台のシンガーミシンを買って与えてけいこ用に使わせること、終了後は村の指導者になること、が条件で、文学、音楽から保育、看護、料理、洋裁、簿記や産業組合論、栄養理論などをみっちりたたきこんだ(一か月11円だった)。

3.働く婦人の家を設立
「東京働く婦人の家」と名付け、専任事務員をおき、泊まっていた二人の職業婦人からも格安な室代をとることにして夜の講座のプランも立てた。先立つものは金であるから、松竹の少女歌劇を一夜借切ってみんなで切符を売ろうじゃないかと励ましたら、大勢の協力は涙ぐましいほどで、超満員の成績を収めることができた。これに娘たちは勢いづいて協力を惜しまず、笑い声の絶えない働く婦人の家となった。
 催し物の切符売りは、ずっと年2回か3回ずつ続けにぎやかに楽しい事業をやっていた。夜間講座もすぐに満員となり、和裁には都電の車掌さんがたくさん来たし、事務員、タイピスト、交換手は、洋裁、生花、習字、和歌、料理、音楽に集まった。まもなく料理は新宿と銀座のガス会社の専用教室を借り、音楽はピアノ店を、体操は幼稚園を借りて手を広げた。

4.主婦博士を目指そう
物価調査や役所への陳情、業者との懇談や詰問会は続けている反面、工場見学もして勉強をした。8月はお母さんの勉強会の月と称して主婦の夏期大学は1週間ずつ、10年間続けてきた。「みんな主婦博士になりましょう」というのがスローガンで、家庭で日常に手掛けている物一つを深く勉強することにしている。米の博士、石けん博士、燃料博士、糸の博士というふうである。

奥 むめお
おく むめお
大正時代
生年月日 (1895-10-24) 1895年10月24日[1]
出生地 福井県福井市
没年月日 (1997-07-07) 1997年7月7日(101歳没)[1]
死没地 東京都新宿区
出身校 日本女子大学校
(現在の日本女子大学
前職 新婦人協会理事
所属政党 国民協同党(1947-48)→
緑風会(1948-60)→
参議院同志会(1960-62)→
第二院クラブ(1962-64)→
緑風会(1964-65)
称号 勲二等宝冠章(1961年)
正四位

選挙区 全国区
当選回数 3回
在任期間 1947年5月3日 - 1965年6月1日
テンプレートを表示

奥 むめお[注釈 1](おく むめお[注釈 2]、、1895年10月24日 - 1997年7月7日)は、日本婦人運動家政治家参議院議員を計3期務め、1961年(昭和36年)に勲二等宝冠章を受章、没後に正四位を追賜された。1989年(平成元年)に福井市名誉市民の称号を贈られた[2]。本名は奥 梅尾(読み同じ)。

  1. ^ a b 室田保夫『人物でよむ近代日本社会福祉のあゆみ』ミネルヴァ書房、2006年5月30日、192頁。 
  2. ^ 福井市名誉市民・市民栄誉賞


引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注釈"/> タグが見つかりません

[ 前のページに戻る ]