生年月日 | 1900年4月11日 | 私の履歴書 掲載日 | 1972年5月13日 |
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執筆時年齢 | 72 歳 |
1900年(明治33年)4月11日 – 1988年(昭和63年)9月20日)熊本県うまれ。俳人。
本名、破魔子(はまこ)。星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女とともに4Tと呼ばれた、昭和を代表する女流俳人。斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。
交流のあった杉田久女の力強い句風とは異なり、生活に密着した素直で叙情的な作品が多かった。高浜虚子は実子の星野立子と並んで汀女を特別に指導しており、汀女の第一句集『春雪』(1930年)と立子の同年の句集『鎌倉』に同じ序文を寄せて姉妹句集としている。
1.俳句のきっかけ
それは大正7年(1918)の12月もおしつまった日であった。いつものように私の受け持ちの拭き掃除に、玄関の式台を拭いていたら、前庭の垣根のところに寒菊が咲いている。いつも冬になればひとりでに咲く、ありふれたえびちゃ色の菊であるが、その時は珍しいもののように目に映った。
吾に返り見直す隅に寒菊紅し
という文句が浮かび、自分でも驚きを感じたが、短い言葉のたのしさ満足さ、俳句とはこんなものではないかと思って、私は急いでまた何かを作りたくなった。次は縁側の方にまわってながめると、池の向こう、庭の奥に八つ手の花が咲いていた。
いと白う八つ手の花に時雨けり
そして塘(とも)に出れば師走の湖はさびしく、鳰(かいつぶり)が浮かんでいた。
鳰葭に集まりぬ湖暮るる
これはいつもの景。その他柳の根もとの沢蟹にことも言ってみたかった。こんなものが俳句といえるかどうか、それを試すために、父が愛読する九州日日新聞(現熊本日日新聞)の俳句欄に送った。ところが選者の三浦十八公氏から大変にほめた手紙が来て私は十七字を続いて作る気になったのだった。
2.杉田久女氏との出会い
久女氏との出会いは「枯野」を通して知り合ったと思う。長谷川かな女、金子せん女、阿部みどり氏たちとともに、私には憧れの大先輩が、江津に遊びに来られることになった。目の大きくすべてにきりりとした美しい人であり、連れてこられた二女の光子さんは小学校前であった。私はまた得意の水棹を持って舟に乗せたのだが、あの方の身の上話をも聞き、すべてに感じ入り同意した。二泊されたのだったが、兄事でなく長く姉事したといえる。
3.高浜虚子先生と娘・立子さん
昭和7年7月にはじめて私は高浜虚子先生をたずねる気を起こした。これまで雲の上のように遠い方とも考えていたのである。ホトトギス発行所は丸ビルの8階、その部屋に入って、私が突っ立っていた場所は、部屋の真ん中、虚子先生が逢ってくださるには都合の悪いところだったようだ。虚子先生はお背は高くなかったが、きっちりと袴が身について、落ち着いたふるまいで居られた。別れ際に、「いい句を作っておられたから」といわれたようで、励まして下さる有り難い言葉であった。
そして「立子にも逢ってください」といわれたので、私は次の句会に出かけて立子さんにあった。
4.台所俳句
私は句を作っていたことを、いま、良かったと思う。ことに私のは多く身近なものなので、日記の役を果たしてくれて、一句の周辺には家族の姿があり、その日の心の影を見せている。句は私の自叙伝の役も果たしている気がする。ひと頃、立子さんや私の作るものは台所俳句といわれ、凡俗な道を歩むものだということになった。
「台所俳句」とは女流の句をけなすのに、たいへん重宝らしく、あらゆる人が使った気がするし、現在に至るまで尾を引いている。私はちっとも気にしなかった。私たち普通の女性の職場といえるのは、家庭であるし、仕事の中心は台所である。そこからの取材がどうしていけないのか。一人の女の明け暮れに、感じ浮かぶ想いを、ひとりだけの言葉にのせ文字にする。それだけでよろしいのではあるまいか。
5.文藝春秋社から「中村汀女、星野立子互選句集」を出す
私にいま出来ることは婦人方と共に俳句を作ること、それは喜び悲しみを共にすることである。私は俳句を十七文字の消息文だとも思う。誰彼の心からの消息が十七文字に込められている。その作品を一句ずつ大切にしたいと思う。生かしてあげたいと思う。お互いに句ができて、今日に満足し、明日を楽しく持つことができれば、この上ないことではあるまいか。
・ちんどん屋疲れてもどる夏の月
・たんぽぽや日はいつまでも大空に
・外(と)にも出よ触るるばかりに春の月
・とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな
・咳の子のなぞなぞあそびきりもなや