美女と才女
オードリーヘップバーン  1 
女優
生年月日1929年5月04日

1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』でトニー賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。

「私生活」:メル・ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた。
その後もヘプバーンは妊娠したが、1965年と1967年の二度にわたり流産を繰り返した。最終的に二人は1968年12月5日に離婚し、二人の結婚生活は14年間で終わりを告げた。
ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった。ヘプバーンはさらに子供を望んでおり、そのためには女優を辞めてもいいと思っていた。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には帝王切開で男子ルカ・ドッティが生まれている。
ドッティとの離婚が成立すると、ヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めたが、正式に結婚することはなかった。1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。
主な作品『ローマの休日』『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レディ』        受賞

AFI(米国映画協会)の「最も偉大な女優50選」では第3位。
同協会の2002年選出で「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも、第4位『ローマの休日』、第12位『マイ・フェア・レディ』、第54位『麗しのサブリナ』、第57位『いつも2人で』、第61位『ティファニーで朝食を』。

森英恵(ファッションデザイナー)「私の履歴書」1994年4月掲載から


ジパンシィ氏は、パリジャンならではのエレガンスを極めたモードづくりで知られる。その作品はオードリー・ヘップバーン主演の映画で有名になった。いつかパリの自宅で、私のためにごく内輪のディナーパーティをして下さった。彼の精錬された美学が暮らしのすみずみまで豪華に統一されている様子に驚いた。当夜のホステスはオードリー・ヘップバーンさんだった。彼女は自分の家にいるように自然にふるまいでもてなして下さった。お化粧は薄く、黒いバギーパンツに白い絹のブラウスを着て、靴はフラットシューズ。その話しぶりはとても知的だった。優しいナチュッナルな笑顔が今でも忘れられない。
オートクチュールのメゾンが自社のモードのイメージづくりのために、著名な女優を起用したケースは多い。イブ・サンローランはカトリーヌ・ドヌーブ、エマニュエル・ウンガロとアヌーク・エーメ・・・。その中でもジパンシーとヘップバーンは、深い信頼関係で結ばれていた」。

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