美女と才女
湯川れい子  
音楽評論家・作詞家
生年月日1936年1月22日
私の履歴書  掲載日2017年1月01日
執筆時年齢80 歳

1936年1月22日- 東京都生まれ。音楽評論家・作詞家・翻訳家・USEN放送番組審議会委員長。女優・吾妻 麗子名義で活動した事もある。
父は海軍大佐・湯野川忠一。忠一の従妹(父・湯野川忠世の妹の娘・礼子)は山本五十六の妻。
『スイングジャーナル』誌への投稿が大きな反響を呼んだことがきっかけで同誌編集部員の岩浪洋三から声がかかり、インタビュアーならびにジャズ評論家として1960年に同誌にて執筆開始。
その後ラジオのDJやワイドショーのコメンテーターなどでメディアに自ら出演。作詞、翻訳、ノンフィクション作家など活躍の場を広げる。日本作詞家協会会長、日本音楽著作権協会(JASRAC)理事、日本大衆音楽文化協会理事も務める。
1966年6月29日(水)にザ・ビートルズが訪日した際に湯川は「『ビートルズが欲しがっている』という警備腕章をビートルズに届ける」という名目でビートルズが泊まっている東京ヒルトンホテル客室10階に7月2日(土)夜に行きビートルズに面会する。
ラジオのDJ歴は数十年である。ラジオ日本の「アメリカン・トップ40」でのDJは特に有名。

1.女の覚悟(母から自害の作法)
父の先祖は山形藩士だった。母方も武家で、武家のしきたりを受けてきた。昭和20年8月15日正午。母と9歳の私は並んで居間のラジオの前に座った。独特の抑揚の声が聞こえてくる。戦争が終わったことは理解できた。母は背筋を伸ばしたままだった。幾日か経って母が私を座らせた。手に懐剣を持っている。鞘から抜き出した刀身は細くて怪しい鏡のようだった。その懐剣は亡くなった父が、私の嫁入りのときに持たせるために用意していたものだ。「あなたが辱めを受けるようなことがあったら、これで自害しなさい」。母はそう言って作法を教えてくれた。
 正座した膝を縛り、懐剣を懐紙で清め両手で喉に当てて前に倒れこむ。母がやって見せ、私も同じようにした。「辱め」の意味も知らない私だったが、自分で自分の命を奪うやり方を教える母に、何か切迫したものを感じた。
 日本は戦争に負けた。ならば占領軍が来るだろう。彼らに汚されるくらいなら自分は死を選ぶ。娘にもそうさせたいと、母は武家の娘らしく潔く決めたのだと思う。

2.英語の上達法
高校時代、行き先は高校ではなく映画館、ということが多くなった。ずっと聴いていたNHKラジオの「英語会話」で平川唯一先生が、上達したければ「アメリカの都会を舞台にした映画を見なさい」といっていた。生きた英語を見つけるには映画がいちばんではないか。
「チャップリンの殺人狂時代」「第三の男」「陽の当たる場所」「巴里のアメリカ人」「欲望という名の電車」。これらの作品はすべて1952年に日本で公開されたものだ。私は封切を待ちわび、胸を躍らせてスクリーンに目を凝らした。
 1回目は字幕を見ながらセリフに耳を澄ます。2度目はなるべく字幕を見ないようにする。ここでお昼になるので廊下に出てお弁当を食べる。3回目は絶対に字幕を見ない。4回目はセリフを聞いて「あれ?」と思ったところだけ字幕を見る。
 すると少しずつ、銀幕の中の人物が何を話しているのかがわかってくる。作品の数を重ねるにつれ、英語が聴き取れるようになった。

3.ビートルズと単独会見
ザ・ビートルズの来日公演は66年6月30日~7月2日の3日間だった。私は週刊読売が出す予定の「ビートルズ来日特集号」の編集キャップを依頼されていた。狙いは単独会見。しかし、密着取材は米国のライム・ライフ誌が独占契約を結んでいるので無理だった。そこでビートルズが望む武道館の警備スタッフが巻いていた腕章を届けることで会うことになった。
 彼らに会えてもタイム・ライフとの独占契約を侵すようなインタビューはできない。自分の正体も明かせない。ファンに毛が生えたような質問しかできないけれど、その方がいいかもしれない。
 午後10時過ぎだった。1005室のソファに座っていると、奥からポール・マッカートニーが出てきた。「君は誰?」「誰かしら。空を飛んできたの。少しおしゃべりしてもいい?」「いいよ。まぁ座って」。ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターも姿を現す。ポールがジョージに「彼女にお茶を持ってきて」という。お茶を手に戻ってきたジョージに私は話しかけた。「日本のファンはあなたたちに済まないと思って、泣いているのよ。東京を楽しんでもらえなくて」「そんなことはない。ホテルの部屋にこもるのは慣れているから。殺されずに済めば、それでいいんだ」「ポールは結婚しないの?」「誰が結婚するなんて言った?まぁそのうちにね」。ポールに「誰と写真を撮りたい?」と聞かれて私は即答した。「リンゴ!」。私はリンゴと並び、ジョージが構えたカメラのレンズに笑顔を向けた。
 
4.歌手シンディ・ローパーの友情と励まし
2011年3月11日、関東大震災が起こり、東京電力原発の1号、3号、4号機が続けざまに水素爆発を起こし、その模様が世界中に伝わった。日本在住の外国人が一斉に日本を離れ始めた。この11日に友人のロックシンガー、シンディ・ローパーは来日し、名古屋、東京、大阪と公演を組んでいた。彼女やバンドメンバーも国からの帰国要請に動揺しただろうが、彼女は帰国しなかった。東京公演は未曽有の災害に見舞われたというのに、当日券を求める長い列ができた。彼女はバンドメンバーに向かって深々と頭を下げた。「こんな時に一緒に残って欲しいとお願いしてごめんなさい。残ってくれてありがとう。私たちが力を合わせることで、少しでも日本人を元気にしたいのよ。今夜も頑張って‼」。オーチャードホールを埋めた観衆は涙を流しながらシンディと声を合わせて歌った。

ゆかわ れいこ
湯川 れい子
生誕 (1936-01-22) 1936年1月22日(85歳)
職業音楽評論家作詞家翻訳家USEN放送番組審議会委員長
受賞1986年日本女性放送者懇談会賞[1]

湯川 れい子(ゆかわ れいこ、本名・湯野川和子(ゆのかわ かずこ)[2]1936年1月22日[3] - )は、日本音楽評論家作詞家翻訳家USEN放送番組審議会委員長。女優吾妻 麗子名義で活動した事もある[4]東京都目黒区出身。山形県米沢育ち、東京都世田谷区在住。

  1. ^ 歴代受賞者”. 日本女性放送者懇談会 SJWRT. 2016年6月21日閲覧。
  2. ^ 『わたしが子どもだったころ』(BS hi)より
  3. ^ 和田靜香『音楽に恋をして』p.23
  4. ^ 和田靜香『音楽に恋をして』p.96
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