生年月日 | 1940年7月02日 | 私の履歴書 掲載日 | 2015年7月01日 |
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執筆時年齢 | 74 歳 |
1940年7月2日 – 中国、満州生まれ。ヒロインのルリコ役を募集しているのを千代田区立今川中学校在学中の1954年(昭和29年)夏に知り、両親賛成のもと応募、11月23日に面接が行われ約3,000人の中から中原淳一が浅丘のメイクを見て「この子だ」と言い、強力な推薦によって選ばれ銀幕デビュー、「ルリコカット」が当時の女性たちの間で大流行し、瞳の大きな美少女として脚光を浴びる。
1961年8月に当時交際していた小林旭と別れ、この頃より生活が荒むものの石原裕次郎に励まされ持ち前の根性で再起する。また1964年には「夕陽の丘」でレコードデビューした。日活の看板女優として数多くの映画に出演し、人気を博した。現在までの映画出演本数は150本以上。
日本映画全盛期に一世を風靡した日活アクション映画における代表的なヒロインであり、小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の三大アクション・シリーズや 石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ(『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)等)など多数の作品でヒロイン役を演じた。
1971年日本テレビのドラマ『2丁目3番地』での共演をきっかけに石坂浩二と結婚。石坂は当時の世の男性の羨望を一身に集める事となったが、程なく別居。
1.美空ひばりさん
歌謡界の女王、美空ひばりさん。私にとってずっと憧れの人でした。1962年11月5日、そのひばりさんと日活の看板スター小林旭さんとの結婚披露宴が盛大に執り行われた。私は長門裕之さんに付き添ってもらって披露宴に出席した。挙式後、ある週刊誌から私がリポーター役としてひばりさんと旭さんとの新居を訪問し、お節介にも熱々の新婚生活をインタビューするものだった。
ひばりさんとプライベートで親しくなったのは東京・成城の石原裕次郎さんの自宅でのパーティ。「ひばりさんと旭さんの結婚祝いをしよう」と裕ちゃんが企画したのだ。ひばりさんは私の姿を見るなり、陽気な笑顔を見せながらこう声をかけてくれた。「ねぇ、踊りましょう」。音楽に合わせて二人はチークダンスを踊った。肌と肌を合わせて濃厚に・・・。ひばりさんは、私と旭さんが恋人同士だったことをもちろん知っていた。だから私に気を使っていたんだと思う。そんな二人の様子を旭さんは遠くから見守っていた。
ひばりさんは周囲に気くばりする繊細な人。ある晩、赤坂のナイトクラブでお酒を飲んでいた。メンバーは私、ひばりさん、裕ちゃん、勝新太郎さん。するとひばりさんはその間、ずっと皿に山盛りの巨峰の皮をむき続けているのだ。丁寧に種まで全部取って・・。男たちが食べやすいようにとの配慮だった。あの天下の美空ひばりさんがブドウの皮むきに専念しているなんて・・・。私もボサッと見ているわけにはいかず、隣でブドウの皮むきをせっせと手伝った。
2.石坂浩二さん
「知り合いがルリ子に会いたがっているの・・」。ある日、仲良しの加賀まりこさんからこんな電話が入った。知り合いとは石坂浩二さんのこと。二人はかって恋人同志だったが、このときはもう交際が終わっていた。「え、石坂浩二?嫌よ。別にタイプじゃないもん」。私はどちらかというと石原裕次郎さんのような体育会系が好み。石坂さんは青白い文学青年みたいであまり好きではなかった。しかし、なぜかテレビドラマ「2丁目3番地」の夫婦役で共演するこのになった。
撮影が始まると、石坂さんの話好きには本当にあきれた。撮影の合間もずっと話し続けているのだ。星座のことから文学、絵画、音楽、科学へと話題が尽きない。もっとセリフや演技に神経を集中したいのに・・・。「迷惑な人ね」とほとほと手を焼いていた。それにもめげずに私にグイグイアプローチしてくる。石坂さんは目が大きくてハデな顔立ちが好きだったみたい。加賀まりこさんも小悪魔みたいで派手な雰囲気だったでしょう。
この撮影が終わり、最後の打ち上げの日。共演者やスタッフとお酒を飲んだ後、皆で石坂さんの家にお邪魔することになった。明け方近く、やがて次の仕事もあるから「蛍の光」を歌ってお開きにしましょうと皆で合唱を始めた時、隣の石坂さんの声が急に聞こえなくなった。顔を覗くと、眼に涙をいっぱいためて子供のように号泣している。「まぁ、かわいい・・」。私の母性本能がくすぐられた。気がつくと石坂さんを胸の中で優しく抱きしめていた。二人の結婚は放映終了後の2月後だった。
3.蜷川幸雄さん
映画やテレビで仕事をしてきたが、芝居に出るにはやはり相当な勇気が必要だった。映画やテレビならば1カット、1カットのセリフや演技に集中するだけでいい。でも舞台ではセリフを通しで覚えなければいけない。もしセリフが飛んで頭が真っ白になったら目も当てられない。観客の前で呆然と立ち尽くす・・悪夢を何度も見ていたので、芝居のオファーが来ても必ず断っていた。
でも演出家の蜷川幸雄さんが、尻込みする私を辛抱強く舞台の世界に誘い続けてくれた。私を日生劇場まで呼び出して客席に座らせると、蜷川さんが自らステージに立ち、実際に演技しながら、映画と舞台での体や目の動かし方の違いを丁寧に教えてくれる。
映画やテレビでは画面がアップになるから小さな動きでも十分。でも観客まで距離がある舞台では大げさなくらいに動かないと伝わらない。発声法もまったく違う。映画やテレビならば小声でもマイクが拾ってくれるが、舞台では観客まで届かない。そして、驚いたことに蜷川さんは片肌を脱いで半裸になり、人間の肌が客席からどんな風に見えるのか私にわかるように実演してくれたのだ。
蜷川さんの強い熱意に心を突き動かされ、私はついに舞台に立つ決意を固め、初舞台1979年の「ノートルダム・ド・パリ」に出演した。
あさおか るりこ 浅丘 ルリ子 | |||||||||||||||
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『映画情報』1960年3月号より | |||||||||||||||
本名 | 浅井 信子(あさい のぶこ) | ||||||||||||||
生年月日 | 1940年7月2日(84歳) | ||||||||||||||
出生地 | 満洲国・新京[1] | ||||||||||||||
身長 | 156 cm[2] | ||||||||||||||
血液型 | A型 | ||||||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画、舞台、テレビドラマ | ||||||||||||||
活動期間 | 1954年 - | ||||||||||||||
活動内容 | 1954年:『緑はるかに』でデビュー。 | ||||||||||||||
配偶者 | 石坂浩二(1971年 - 2000年)[1] | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
テレビドラマ 『冬物語』 『家族熱』 『土曜日曜月曜』 映画 『ギターを持った渡り鳥』[1] 『愛と死のかたみ』 『愛の化石』 『蒼ざめた日曜日』 『鹿鳴館』 『デンデラ』 | |||||||||||||||
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浅丘 ルリ子(あさおか ルリこ、本名:浅井 信子(あさい のぶこ)、1940年〈昭和15年〉7月2日[1] - )は、日本の女優。血液型はA型。前夫は石坂浩二。カラント(舞プロモーション関連)所属。