生年月日 | 1932年4月03日 | 私の履歴書 掲載日 | 2010年4月01日 |
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執筆時年齢 | 77 歳 |
1932年4月3日 、大阪府生まれ。女優。宝塚入団時の成績は63人中9位。在団期間は短かったが、主演娘役として活躍した。在団中の1951年、東宝『寳塚夫人(宝塚夫人)』で映画デビューする。元々、宝塚在団中から新劇のファンであり、映画への誘いに抵抗がなかったという。1953年、自身が男役を演じた際の違和感から映画に興味が転じ、3月25日付で宝塚歌劇団を退団し、東宝の専属女優となる。1954年には岸惠子・久我美子らと共に「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立する。
1961年11月27日、俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)と結婚式を挙げる。
しかし、そこでの家事生活は過酷なもので、昼も夜も台所に立つ日々に疲れてしまい、これが離婚の一因になってしまった。
2010年4月、『私の履歴書』(「日本経済新聞」)でもこの不倫と堕胎について触れ、赤裸々な連載が話題となった。有馬自身は映画監督の実名を公表していないが、一部のマスコミは市川崑であると実名報道している。
1.にんじんくらぶ発足
昭和29年(1954)に5社協定に反旗を翻して、同年代の岸恵子さん、久我美子さんと3人で立ち上げた。新橋駅近くに小さな事務所を構え、発会式には川端康成、舟橋聖一、井上靖、壺井栄、佐多稲子といった文壇のそうそうたる顔ぶれがご出席くださり、アトラクションは3人の絣の着物に赤い襷で、「揃うた、揃うたよ、田のあぜ道に、赤い襷の娘が揃うた・・」と歌い踊る大騒ぎだった。
このクラブ作品は、映画史に残る五味川純平監督の「人間の条件」、石川達三の「充たされた生活」、今東光の「お吟さま」などの3本はかなりの成果を上げた。
2.小津安二郎監督
昭和32年(1957)に小津監督の「東京暮色」に出演した。小津組は、他の組と全く違っいて、スタジオは空気がピーンと張りつめてしわぶき一つしない。小道具を置く方角を「そのコップちょっと大船、花瓶は鎌倉」と指示するのはいまや有名なエピソードだが、「彼岸花」では卓上の食器が気に入らず、急遽、ご贔屓の新橋の店から取り寄せることとなり、その日一日はお休みになったことがある。俳優にとって、小津作品に出るというのは特別な意味がある。とりわけセリフや動きを何度も何度も練習する。「行くの?」 「行くわ」 「やっぱり行くの?」。私はくが高い、わが低いと何回も言わされた。原節子さんが黙って振り向くシーンを10回もやらされているのを見て、ベテランでこうなのだから私などはと顔がピクピク痙攣した。ただ仕事が終わると、小津監督は、見事に人のいいお酒好きの好々爺と一変する。ネコちゃん、すき焼き食べる? 私の演技の運命の出会いだと思う。
3.ある監督(つらい思い出)
東宝に入社した昭和28年(1953)、私は森本薫の戯曲「華々しき一族」の出演が決まり、その監督と初めて出会った。指の美しい人だった。その指にペンで上手に絵コンテを書いて場面を説明してくれる。これがまたユーモラスで実に納得させてくれる名人、21歳の私の心が騒いだ。
この後、多くの映画や美術館、音楽会にも連れて行ってくれ、監督は時代の先端を行く文化のシャワーを、知識に飢えた私の心にたっぷり浴びせかけてくれた。その後、ふたりの関係は急激に展開する。彼は17歳も年上だった。出会った1年目ぐらいだったろうか、「妻とうまくいっていなくて別居している。きちんとしたら君と結婚したい、春までには・・」、春の約束は夏になり、秋を迎え、また春になり7年の月日が経ってしまった。聞けは監督の奥さんは脚本家だという。
監督からは、思い出したように電話がかかってきた。こちらはただ待つばかり。連絡は絶対してはいけないと言われていた。こんなときに中村錦之助さんに逢った。「浪速の恋の物語」の共演である。撮影に入ってしばらくすると、錦之助さんから「結婚を前提にお付き合い」を申し込まれた。袋小路に入り込んでいる監督に、私は自分の気持ちを率直に話すと、監督は激しく反対した。
この後、私が盲腸で手術したときも、監督は自分のことしか考えない人だと感じ取ることができた。かって間違いなく私の体の中にいて、ついに愛情に祝福されることがなかった子どものことを思い出して涙が止まらなくなった。
4.中村錦之助さん
昭和36年(1961)、大川博東映社長の媒酌で式を挙げた。京都の鳴滝の900坪の土地に、150坪の家を建てた。プールと体育館も作り、庭には大好きなスタンダードのバラを中心に70種類のバラを植えた。しかし、私はこの「豪華」な邸宅で安住することはできなかった。撮影を終えた錦ちゃんが、ひとりで帰宅することはまずない。いつも10人近いスタッフや、スタッフでない人も連れ帰って、夕食はそのまま大宴会になだれ込む。酒と料理の心配が絶えることがない。つまり私は宴会場の女将になったようなものだった。そしてこのお客様たちはそのまま宿泊客となり、朝にはまたその人たちのために朝食の支度。夫婦二人の時間などまったくない。何人かのお手伝いさんもフル回転したが、力を抜くことを知らない私は次第に疲れ始めた。
梨園の古いしきたりを重んる世界に生きる婚家を、自分なりに改革しようと思っても、夫や夫の家に尽くすことが結婚というなら、舞台への希望もあり忙しい妻には平安な家庭の両立は難しかった。
平成9年(1997)、錦ちゃんが亡くなった時、私は膝の手術をした直後で病院に入院していた。離別した元妻が通夜に行くのはおかしいと止める人もいたが、私は慣れない松葉杖で出かけた。明るく天衣無縫で自由奔放、洒脱で冗談が好きであれほど小気味のいいタンカを切れる人はいない、そんな俳優だった。そのスターの思い出話は尽きない。
ありま いねこ 有馬 稲子 | |
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『サンケイグラフ』1954年9月12日号より | |
本名 | 中西 盛子(なかにし みつこ) |
生年月日 | 1932年4月3日(92歳) |
出生地 | 日本・大阪府豊能郡池田町 (現:池田市)[1] |
血液型 | A型 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 |
活動期間 | 1949年 - |
配偶者 | 萬屋錦之介(1961年 - 1965年)[1] 河村三郎(1969年 - 1983年)[1] |
著名な家族 | (初代)有馬稲子(伯母・養母) |
公式サイト | 有馬稲子の喜望峰 |
主な作品 | |
テレビドラマ 『天と地と』 『赤い運命』 『あすか』 『名古屋仏壇物語』 映画 『彼岸花』[1] 『人間の条件』[1]<第一・二部> 『武士道残酷物語』 舞台 『風と共に去りぬ』[1] 『奇跡の人』 『はなれ瞽女おりん』 |
有馬 稲子(ありま いねこ、1932年4月3日[1] - )は、日本の女優。大阪府豊能郡池田町(現:池田市)出身[2]。血液型はA型。愛称は「ネコちゃん[3]」「おイネ」。ホリプロ・ブッキング・エージェンシー所属。本名:中西 盛子(なかにし みつこ)[2]。