生年月日 | 1921年2月14日 | 私の履歴書 掲載日 | 1991年12月01日 |
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執筆時年齢 | 70 歳 |
1921年〈大正10年〉2月14日- 平良敏子(たいらとしこ)は沖縄生まれの染織家で、戦争で途絶えてしまった芭蕉布(ばしょうふ)を再興させた人物です。芭蕉布の技術で人間国宝に認定された、沖縄を代表する着物作家と言えます。
芭蕉布は丈夫で長持ちし、何代にも渡って着続けられるので人気です。
芭蕉布の制作方法ですが、まず多年草の植物である芭蕉の木から取れる繊維を細かく裂きます。
仕上がったときにかすったような文様にするため絣(かすり)結びをして染料で染め、不純物を除いて洗います。全部で30近い工程があり、仕上げまで約半年かかると言われており、1反の反物を綴るにはおよそ200本もの芭蕉の木が必要です。
芭蕉布は染料も天然のものを用い、自然の風合いを活かして作り上げられます。自然の染料なので毎回まったく同じ色味を作ることは難しく、染め上げられた芭蕉布は唯一無二の作品に仕上がります。
また、すべての工程を手作業で行うことで、しなやかで優しい雰囲気がある着物になります。
芭蕉布には風通しが良くサラサラとした触り心地と、飽きの来ない自然な色味があります。
触れるとひんやりとして清涼感があり、古くから夏向けの衣類として重宝されています。
芭蕉の繊維はとても繊細で、仕上がった織物は虫の羽のように薄く透けて見えますが、生地は丈夫で長持ちして色合いも褪せにくいことから、代々受け継ぐことができる着物です。
1.女子挺身隊に応募
昭和19年(1944)3月30日、私は第4次沖縄県勤労女子挺身隊副隊長として、110人の仲間と共に輸送船に乗り込んだのです。まだ暗いうちで、負傷兵を送還する船など何隻かで船団を組み、ひっそりと出発しました。学童疎開丸「対馬丸」が撃沈されたのも同じ海域です。いつもなら2日目に着く鹿児島に、9日目に何とか無事に到着したのです。
4月20日、ようやく桜満開の倉敷紡績工場が国策で軍事工場にかわり、入所しました。ここは各地の女子挺身隊や、学徒動員の男女学生が働いていました。鋲打ち、プレス、検査などの仕事で、私はジュラルミン製の小さな部品をハサミで切り取る板取りの作業でした。交代制で朝から晩まで、時には徹夜で働くので、中には鋲打ちの騒音で耳が聞こえなくなる人もいました。
2.大原総一郎社長さま
敗戦と同時に早島工場の作業は中止になり、大原社長様は「身寄りのある人は、そこを頼って帰ってください。帰るあてがなく、ここに残りたいと思う人は残ってよろしい」とおっしゃり、沖縄女子挺身隊の私たちに、当時のお金で200円か300円を貯金通帳にして渡して下さったのです。
社長様は、沖縄の文化をこの倉敷に残したい、酒津に沖縄娘村を作りたい旨を話されました。私は「織物なら、ある程度のことはできます」と答えました。
早速、「沖縄文化再建のために」という名目で、私たちの織物の勉強会が会社の事業計画に組み込まれ、勉強会が始まりました。
そして翌21年正月に、外村吉之介先生が私たちの指導のため、疎開先の福井から倉敷にやってこられたのです。外村先生は、用の美や手工芸を尊ばれた柳宗悦先生の民芸運動に加わり、戦前に沖縄に来られたことのある方でした。外村先生からは平織りのほか組織織りなども教えていただきましたが、技術より、織りの心を強調されました。織りをする人の心構えが大切、モノを見る目を養えと、おっしゃるのでした。
3.芭蕉布
昭和30年(1955)代の前半、沖縄に帰り公民館で芭蕉布の技術者養成講習を始めたときは、金銭面で最も苦しい時期でした。芭蕉布は沖縄で一番古い織物の一つと言われています。普通の織物は糸を取り寄せ、染色し、布に織りますが、芭蕉布は原木の栽培から始めるので、大変時間がかかるのです。
芭蕉の木には実芭蕉、花芭蕉、糸芭蕉がありますが、芽が出て3年で繊維がとれるようになりますが、その間、年に3,4回、繊維を柔らかくし、根と先の太さを一定にするため、葉や芯を切り落とさねばなりません。成長した原木を切り倒し、根の切口に切り込みを入れ、表から一枚ずつ皮を剥いでいきます。束ねた原皮を、木灰汁を入れた大鍋で煮、次に水洗いし、荢引きをします。原皮を2つ、3つに裂いて、竹ばさみでしごいて不純物を取り除くのです。この後が最も時間のかかる荢紡みです、30分ほど水に浸した繊維を、根の方から爪先、指で筋に沿って裂いていくのです。それを機結びしてつなぎ、糸にしていくのです。これでようやく芭蕉の糸ができるのですが、1反織るのに千グラムは必要です。これを集めるのに、実に200本の糸芭蕉から1枚の着物ができるのです。
4.織る心
芭蕉の糸は少しの収縮もきかず、すぐ切れたり、折れたりするのです。絣に染めた糸は弱く、糸を扱うときは、本当に細やかな心遣いをしなければなりません。
織りにはおる人の心、人生が出てしまいます。世の中が気ぜわしくなったせいでしょう。今の人たちがいくらゆっくり、ゆっくり織ったつもりでも、昔のおばあさんのテンポとは違うのです。心のせわしさが織りの動きに跳ね返っているのでしょうか。
たいら としこ 平良 敏子 | |
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生誕 | 1921年2月14日 沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉 |
死没 | 2022年9月13日(101歳没) (死去判明日) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 喜如嘉尋常高等小学校 |
時代 | 昭和 - |
団体 | 芭蕉布保存会、日本工芸会 |
著名な実績 | 芭蕉布の復興 |
代表作 | 『平良敏子の芭蕉布』他 |
影響を受けたもの | 大原総一郎、外村吉之介 |
活動拠点 | 沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉 |
肩書き | 芭蕉布保存会 会長 重要無形文化財保持者(人間国宝) |
受賞 | 沖縄タイムス文化賞(1965年) 卓越技能賞文化賞(1973年) 吉川英治文化賞(1986年)他(#受賞・表彰歴等を参照) |
栄誉 | 黄綬褒章(1980年) 勲四等宝冠章(2002年) |
画像外部リンク | |
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平良敏子 - 沖縄タイムス |
平良 敏子(たいら としこ、1921年〈大正10年〉2月14日[1] - 2022年〈令和4年〉9月13日【死去判明日】)は、日本の染織家。戦前まで沖縄各地で織られていたにもかかわらず、途絶える寸前であった芭蕉布(バショウの繊維を用いた織物)を、戦後に生地の大宜味で復興させた[1][2]。長年の研究成果をもとに独自の芭蕉布の作風を確立し、日本国内外で高い評価を得た[3]。重要無形文化財「喜如嘉の芭蕉布(きじょかのばしょうふ)」の保持団体である「喜如嘉の芭蕉布保存会」の会長を務め、伝承の中心として、後進の育成にも貢献している[3]。代表的な著書に『平良敏子の芭蕉布』などがある[4]。