生年月日 | 1905年10月03日 | 私の履歴書 掲載日 | 1966年10月22日 |
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執筆時年齢 | 61 歳 |
1905年(明治38年)10月3日 – 1972年(昭和47年)2月17日)、長野県生まれ。小説家。貧しい農家に生まれ、12歳の頃にロシア文学を読んだことがきっかけで作家になることを決心し、上諏訪町立諏訪高等女学校(現在の長野県諏訪二葉高等学校)に首席で入学。高女時代に社会主義に関心を持ち始め、労農芸術家連盟に属し、その体験に基づく『施療室にて』でプロレタリア作家として認められる。
小説のほか、社会時評、随筆など多岐にわたる。戦時中、博徒の石黒政一に助けられたことでヤクザの世界に興味を持ち、『黒札』、『地底の歌』、『殴られるあいつ』などの任侠小説も書いた。
1.刑務所
私は関東大震災の時、東京の戸塚警察署に検束されて、市谷刑務所に入れられた。余震と南京虫には閉口だった。市ヶ谷にはすでに堺利彦氏以下、後に共産党員として名を知られた面々が入っていて、一時釈放などを要求していたらしい。が、年代記で見ると、この検挙は共産党としての検挙ではなかったらしい。10月の終わり、雨の降る日に、ゆかた姿で刑務所を釈放された。
これは震災の日、人々が避難してくる道を逆に、下町の迫ってくる火に向かって見物に行った。「一生のうちにこんなことが二度あるものじゃない。よく見ておこう」というのが私の考えだった。この不敵な行動のお蔭で検挙されて、市ヶ谷送りのひどい目にあったのである。
2.林芙美子と壺井栄
私たちの近所には、いずれも新婚の壷井繁治・栄夫婦や、野村吉哉・林芙美子の夫婦が引っ越してきてにぎやかになった。壷井夫人は、銚子に訪ねてこられたのでちょっとお逢いしたことがあった。壷井氏と同郷の小豆島から出てこられて、いよいよ結婚されたのである。この二人の生活は円満だったが、野村・林組の生活はたいへんなものだった。
壷井夫妻や野村吉哉夫妻は、2軒並んだ新しい貸家だったから家賃はラクだったと思う。野村夫人だった林芙美子氏と私は、よく本郷方面まで童話や雑文を売りに行った。二階から見下ろすと小さい芙美子氏が大きい野村氏をおんぶして部屋の中を歩いているのが見えたりしたが、結局あまり仲の良い夫婦ではなかった。壷井夫婦は3組の中では一番生活が安定していた。
3.円地文子と神近市子の恩
特高刑事Y氏が世話してくれた病院は、外科でもあるし、結核患者である私が長くいるのは気の毒なので、円地さんの夫・与四松氏の大学時代の友人だった藤井博士のいる淀橋病院にまた世話してもらった。ここに入るためには、神近市子さんの奔走で多くの人から救援金を貰った。それに、検挙された時の宿屋にいたK子が、そこをやめて看病に来てくれた。病気は、なかなかの重態で、じき、便所にも行かれなくなった。
半年ほどして夫が保釈で帰ってきて、杉並に家を借りて、本格的な療養生活に入った。腹膜も肋膜も治ったが、衰弱はだんだん激しくなった。生死ということの他は、もう何も考えることのできない白痴みたいになっていた。こういう療養の相手となった夫は大変だった。昼も一日中そばについていた。毎日布団を乾かして取り換え、便器をとるのもほとんど夫の仕事だった。私は毎日びっしょり汗をかいた。それは熱のためだが、衣類が濡れると寒い。「熱寒い!」と私は口走ってそばの夫を困らした。もう首が座らないほど私は弱っていた。
が、やがて、空襲の季節になって、私たちは練馬の畑の中に移った。そしてそこいらを歩くようになった。かぞえてみると数え年34歳から7年ほど寝ていたことになる。自分の根気の良いことにわれながら驚いた。
平林 たい子 (ひらばやし たいこ) | |
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主婦と生活社『主婦と生活』5月号(1960)より | |
誕生 | 1905年10月3日 長野県諏訪郡中洲村(現:諏訪市) |
死没 | 1972年2月17日(66歳没) 東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院 |
墓地 | 長野県諏訪市 |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 長野県諏訪二葉高等学校卒業 |
活動期間 | 1927年 - 1972年 |
ジャンル | 小説 |
文学活動 | 無頼派(転向文学) |
代表作 | 『施療室にて』(1927年) 『かういふ女』(1946年) 『地底の歌』(1948年) 『砂漠の花』(1955年 - 1957年) 『秘密』(1967年) 『宮本百合子』(1972年) |
主な受賞歴 | 女流文学者賞(1946年) 女流文学賞(1967年) 日本芸術院賞・恩賜賞(1972年、没後) |
デビュー作 | 『嘲る』(1927年) |
配偶者 | 小堀甚二(1927年 - 1955年) |
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平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年(明治38年)10月3日 - 1972年(昭和47年)2月17日)は、日本の小説家。本名タイ。
職を転々としながら、同棲、離別、検挙、生活破綻、中国大陸や朝鮮での放浪などを経て、その体験から『嘲る』『施療室にて』を発表。プロレタリア作家として出発した。戦後は反共姿勢を強め、晩年は難病に苦しんだが、社会や人生の不条理を逞しい筆致で描いた作品で知られた。没後日本芸術院賞・恩賜賞を受け、平林たい子文学賞が設定された。