生年月日 | 1947年1月08日 | 私の履歴書 掲載日 | 2020年9月01日 |
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執筆時年齢 | 73 歳 |
1947年(昭和22年)1月8日 – 兵庫県生まれ。実業家。アートコーポレーション(アート引越センター)の創業者であり、創業当時から現在に至るまで社長を務めている。「引越サービス業」の生みの親あるいは育ての親と呼ばれることもある。社長として顧客負担の軽減をビジネスにつなげるアイディアで、引越業界にさまざまなサービスを導入してきた。 その例は、荷造り・荷解きの代行、手続きをまとめて行える「ワンストップサービス」、企業向け転勤支援システム「ARTist2」など。電話番号をおぼえやすい「0123」にする、PRキャラクターに「ドラえもん」を採用するなどにより認知を広げてきた。
1.引越し業はサービス業
社員11人、トラック12台で引っ越し専業の仕事を始めた時から、自分たちは運送業ではなくサービス業だと思ってきた。運送以外の部分をいかに工夫するか。主婦の求めるサービスをうかがい、その目線で考えると、アイデァが浮かぶ。開発した商品やサービスはやがて業界のスタンダードになっていった。
2.インテリア(感性を生かせる主婦の目線)
中学を卒業後、大阪府和泉市のJR阪和線和泉府中駅前のインテリア店に就職した。カーテンやカーペットなどを扱っていた。商品について勉強し、お客様の要望を聞いてお勧めの品を考える。そんな仕事が面白かった。
カーテン選びの場合、採寸などで顧客の自宅に出向く必要があるため、18歳になったらすぐに自動車免許を取った。
和泉府中や梅田の店に勤務しているとき、インテリアの基本を教えてもらった。その土台の上に自分の考えや感性を生かせる仕事だと、面白く、自分に合っていると思った。
3.創業時の仕事
寺田運輸と名付けた会社の業務が始まった。夫23歳、私21歳。今の感覚では結婚も創業も相当若いかもしれない。ただ、事務所は鋼材問屋に間借りして机があるだけで、実質的には同社の運送部門だった。当初は、営業・業務面は主人、管理・財務面は私が担当した。当初は主に経理を手伝い、勉強しながら帳簿を付けたり、請求書を出したりした。税務申告の時期が近付くと、自宅の部屋に領収書などを広げ、青色申告の手引きを見ながら書類を作成した。後年、政府の税制調査会の委員に就任した際などに「私は最初、青色申告の手引きで税を学びました」と率直に話した。
税も経営も、知識としてではなく、実務として必要だから、否応なく学ばざるを得なかった。
4.CMソング
寺田が企画したCMが完成し、映像を見せてもらうと、曲だけで詞がない。「どうして?」と広告会社に訊くと、コマーシャルソングは別制作だという。そんな資金はないので、寺田と二人で詞を考えることにした。
「あなたの街のーゼロ、イチ、ニー、サン、アート引越センターへ」という詞は小さな赤ちゃんがいるお母さんから引っ越しを頼まれた場面をイメージした。詞というより作文に近い。作曲を依頼したのは当時無名の若手だった。歌手だけは当時売れっ子だった天地総子さんにお願いした。
15秒のCMが初めて流れる日、寺田や私、幹部らが固唾を飲んでスタート時間を待った。CMが流れた直後、電話が鳴り始めた。その後も流れる、鳴る、の繰り返し。「大当たりですよ」。広告会社の担当者が笑みを浮かべた。