美女と才女
宮城まり子  
「ねむの木」学園園長
生年月日1927年3月21日
私の履歴書  掲載日2007年3月01日
執筆時年齢79 歳

1927年3月21日 – 2020年3月21日 東京生まれ。歌手・女優・映画監督・福祉事業家。弟と共に吉本興業に入り、歌謡曲を歌うようになった。
レコード大賞作詞家・宮川哲夫の手による『ガード下の靴みがき』も大ヒットした。その後も『納豆うりの唄』『てんてん娘』『夕刊小僧』などヒットを連発。弟八郎は宮城秀雄の名前で作曲家として活躍した。
1968年に肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を設立。この頃より、タレント活動は事実上引退状態となる。1973年、吉川英治文化賞受賞。1974年には記録映画『ねむの木の詩』を製作・監督し、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル賞を受賞した。

1.おけいこ
私は4歳のときから舞や清元を習わせてもらっていました。お染久松のお染の柄が好きで、それを着てしゃなりしゃなりと歩いていました。両親の眼にはそれがあまり好ましく映らなかったのでしょう。やめさせられて、呼び名も「ボーヤ」に変わり、つりズボンをはかされて男のように育てられました。
二歳あとに生まれた弟は、先に「ボーヤ」がいたため、「八郎ちゃん」と呼ばれて育ちました。

2.絵は感じたまま・・母の教え
私は花の隣に座って絵を描くのが好きでした。並んで絵を描きながら私は母に聞きました。「お母さまはどうしてそんなに絵がうまいの?」 すると母は、「まりちゃん、人の絵をうまいなど思ってはいけません。人は人、自分は自分。自分の絵をお描きなさい。感じたことをお描きなさい」と少し厳しい口調で言いました。「お母さんは大人になってしまったから、あなたのように素直な絵が描けなくなってしまったの。あなたにはあなたの絵があります。好きなように描きなさい」。
しかし母の言いつけを守ると学校で叱られました。絵の時間にラジオ体操をする人を描いた時のことです。その人がとても気持ちよさそうに見えたので、感じたままに描いたら腕が背よりも長くなりました。先生は「真面目に描きなさい」と言いました。
「ねむの木学園」で私は絵も担当していますが、一度も「上手ね」と言ったことはありません。「うれしいわ」と言います。だって「上手ね」と言ったら子供はそれで満足してしまい、そこでストップしてしまうのです。

3.ガード下の靴みがき(原稿:ゴミ箱の中に)
1955(昭和30)年の夏でした。私がビクター文芸部の磯部さんというディレクターのデスクで遊んでいると、足元のごみ箱に丸めた原稿用紙が捨ててあるのに気づきました。レコード会社の原稿用紙ですから詞が書いてあるはずです。書いた人も、書かれた詞もかわいそう。そう思って私は原稿用紙を広げて皺を伸ばしました。
題名は「ガード下の靴みがき」。私は磯部さんのところへ飛んでいき、「お願い。これ、私に歌わせてください」。追いかけ回して頼み、やっとOKが出ました。
当時、有楽町やガード下や銀座では靴磨きの少年や花売りの少女をちょくちょく見かけました。私はありったけの心を込めて歌いました。
ガード下の靴みがき 詞:宮川一夫、 曲:利根一郎、 編曲:宮城秀雄(弟)

1. 紅い夕陽がガードを染めて ビルの向こうに沈んだら 街にゃネオンの花が咲く 俺ら貧しい靴みがき ああ夜になっても帰れない
3. 誰も買ってくれない花を 抱いてあの娘が泣いてゆく 可哀そうだよお月さん なんでこの世の幸福は ああみんなそっぽを向くんだろう
8月にレコードが発売され、その年の12月の紅白歌合戦でこの歌を歌えるようになりました。それほどものすごい勢いでこの歌が日本中に広まったのです。

4.役者失格→でも、後悔はない
脳性マヒの少女を演じることになったミュージカルで、私は重大な役割を持っていました。上手にやればやるほど芝居全体が面白くなる、そんな役でした。少女のダンスの振り付けが面白ければ面白いほど、お客様のことが気になりました。お客様の中に一人でも病気を持つ子が居たらどうしようと。そのため、稽古ではからだが全く動かなくなりました。身体が悪いのではなく、精神的に動かないのです。演出の菊田一夫先生に言いました。「私、この歌どうしても歌えません。アテトーゼの演技はできません」。「お前、役者だろう」 「役者です」 「役者ならやりなさい」 「できません」。
先生は東宝の重役で、脚本家、演出家です。先生の立場を考えればとても言えない言葉でした。
舞台が開き、私はアテトーゼのない健康な子でやることに決め、歌い、踊り、演技をしました。そして、1月間のミュージカルは終わりました。カーテンコールでは大拍手はなく、役者としては悔しすぎました。終わって、お客様のそばに挨拶にいったとき、私は脚を掴まれました。見ると15歳くらいの女の子が父親に抱かれて、口を大きく開けて「まーりーこさん」と満面に笑みを浮かべ呼んでいました。この子はアテトーゼの子でした。父親と母親は涙を浮かべ必死で抱きしめていました。

みやぎ まりこ
宮城 まり子
宮城 まり子
宮城まり子(1955年)
本名 本目 眞理子(ほんめ まりこ)
生年月日 (1927-03-21) 1927年3月21日
没年月日 (2020-03-21) 2020年3月21日(93歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府蒲田
(現:東京都大田区
死没地 日本の旗 日本 東京都
国籍 日本の旗 日本
職業 歌手
女優
映画監督
福祉事業家
活動期間 1944年 - 2020年
備考
東京都名誉都民
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宮城 まり子(みやぎ まりこ、1927年3月21日 - 2020年3月21日)は、本名本目 眞理子(ほんめ まりこ)。日本クリスチャンキリスト教徒)・歌手女優慈善活動家福祉事業家)・映画監督天皇から受勲され、勲等瑞宝小綬章(旧勲四等[1]

  1. ^ 特別支援学校ねむの木児童・生徒募集のお知らせねむの木学園公式サイト
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