美女と才女
佐藤愛子  
作家
生年月日1923年11月05日
私の履歴書  掲載日1990年5月01日
執筆時年齢66 歳

平成2{1990}年 5月1日~ 兵庫県生まれ。小説家・佐藤紅緑と女優・三笠万里子の次女として出生。異母兄に詩人・サトウハチローと脚本家・劇作家の大垣肇。
父紅緑をルーツに、自身も含めハチローら異母兄弟および子孫たちに伝わる「佐藤家の荒ぶる血」を纏めた大河小説『血脈』を十数年かけて執筆し話題になる。 近年は自身の心霊体験に基づく著作も多い。
借金返済のためテレビ出演・全国講演を遂行して戦後の世相の乱れ等を厳しく批判するので父同様「憤怒の作家」と言われ「男性評論家」と呼ばれていた時期もある。小説のほかにも、身の回りの人物や事件をユーモラスに描いたエッセイを多数執筆。「娘と私」シリーズ等が知られている。
遠藤周作はエッセイの中で『灘中学校時代、通学電車で乗り合わせた彼女は我々のマドンナ的な存在だった』と書き記している。

1. 悪妻の見本 (ソクラテスの悪妻に同情しての本が評判)
私は相変わらず小説を書きながら「半世界」同人費の会費催促をし、支払い熱意のない同人を憤慨した。また、夫Tがやたらに人に金を貸すのを監視し、借りた金を返さない相手を罵り、夫婦喧嘩の絶え間なしという明け暮れだった。そんな時に「ソクラテスの妻」という小説を書いた。この妻・クサンチッペは世界三大悪妻で有名であるが、何かというと夫を口汚く罵るので、弟子がソクラテスに向かっていった。「あなたはどうしてあのようにうるさい奥さんを叱らないのですか?」 するとソクラテスは答えた。「君はめんどりがうるさく鳴くからといって、本気で怒る気がするかね」。私はそのクサンチッペの孤独な憤怒がよくわかった。
この本がきっかけに私は「悪妻の見本」として婦人雑誌などから多くの注文が来るようになり、「悪妻の見本」は次第に「悪妻の横綱」になり、やがて男性攻撃の第一人者という趣になっていく。

2.遠藤周作(同じ年の66歳)
直木賞を受賞して大手出版6社から、「受賞第1作」を注文され、20日以内にその全部に小説を書かなければいけなくなった。朝9時から夕食まで、夜は10時から午前4時頃まで、食事入浴のほかは体力の続くかぎり机に向かっていた。睡眠不足でヘトヘトになっている時、遠藤周作さんから電話がかかってきた。
「日経、読んどるよ」 「そう?えへへ」。照れ隠しに笑う。
「ところでオレはいつ出て来るねん?」 遠藤さんは言った。
「中学時代の友達がお前、いつ出て来るんや、ちっともでてこんなというのや。早う書いてくれよ」
「うん、書いたげる。今書こうとしていたところよ」 「そうか。褒めて書いてくれよ。立派な人やと書けよ」 「ナンボ出す?」 私と遠藤周作さんは同じ年の66歳。いつからか私たちはこんな風になった。

3.生き方(苦労あればこそ愉快)・・あぁ面白かった!の人生に
遠藤さんはよく、「君はなんぼ苦労しても、苦労が身につかん女やなァ」という。仕方なく私は、「そうかなぁ、えへへ・・・」と答える。えへへと笑うのは、それほど苦労したという自覚がないからで、また苦労したと嘆くのが嫌いなタチだからでもある。
私がまだ借金と戦っていた頃、松下幸之助氏と対談したことがあるが、そのとき、松下さんは私の生き方についてこういわれた。
「佐藤さん、それは愉快な人生ですなァ。実に愉快だ」。
私はムッとし、なにをこのじいさん、カネモチなものだから、勝手なことをいう、と思ったものだった。だが、さすが大松下、今になってはじめて私は思う。
「ああ、愉快な人生だったなァ」、と。(松下さん、ごめんなさい) 神は私にさまざまな苦しみを与えられたが、その代わり私を助けてくれる人々もつかわして下さった。それを今、私は神に感謝する。もし私に苦難を与えらなかったなら、私はそれらの人々の愛情と理解に巡り合えなかっただろう。それは人生の宝だ。「ああ、面白かった」。死ぬとき、そういって死ねれば更にいい。今そう思っている。

佐藤 愛子(さとう あいこ)


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