生年月日 | 1925年10月13日 | 私の履歴書 掲載日 | 1995年7月01日 |
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執筆時年齢 | 69 歳 |
1925年10月13日 – 2013年4月8日)は、イギリスの政治家、一代貴族。イギリス保守党初の女性党首(在任:1975年 – 1990年)、イギリス初の女性首相(在任:1979年 – 1990年)。
保守的かつ強硬なその政治姿勢から「鉄の女(英: Iron Lady)」の異名を取ったことで知られる[
彼女を講演で日本に呼ぶため、講演料を2000万円払った団体がいるとも聞いた。いま思っても、彼女の凄いところは、「私は意見の一致を求める政治家ではない。信念の政治家だ」という言葉でした。そして、強い信念と指導力で国家企業の民営化や規制緩和を進め、「英国病」と呼ばれた英国経済を復活に導いた。
具体的な政策は、次の通り。
1.民営化:通信、電力、石油ガスなど幅広い分野を対象にした。
2.財政:「小さな政府」を目指し、赤字削減、行政サービスに民間との競争原理を導入した。
3.税制:所得税の最高税率を83%から40%に(直接税の引下げと間接税の引上げ)。法人税も30%に引下げた。(現在は24%で来年22%になる)
4.規制緩和:株式・債券の取引料自由化など、「ビッグバン」と呼ばれる改革を実行した(外国資本の導入でウインブルトン現象となる)。
5.金融政策:通貨供給量を重視し、インフレを抑制した。
6.社会保障:国民健康保険の負担率引き上げ、年金の増額を抑制。
7.労働組合:争議など組合の権利を制限した。
国としてEUには協力しても、通貨統合には国益を重視して反対した(そのため、欧州の金融危機でドイツや仏国は苦しんでいるが、英国は助かっている)。これらの諸政策は不人気を承知で推し進めたため、「鉄の女」とも呼ばれた。また、82年のフォークランド紛争では海軍を派遣するなど力による外交も展開した(この島はアルゼンチンのすぐ近くにあるが、実効支配は英国が行っていた。国際法上に基づいて強行したが、日本の尖閣諸島問題と同じである)。一方、これらの大胆な政策が成果を上げたがゆえに、貧富の格差が拡大した現実もある。彼女の毀誉褒貶は今でも相半ばする。
この時の「私の履歴書」は、彼女が直近に刊行された英語版の自伝を抜粋・要約したものでした。
1.演説の仕方
私はオックスフォード大学に入学と同時に、ここの保守党協会(OUCA)に入会した。ここには花形の講演者が来て、重要な問題をいろいろ論じていた。大学の学生会が奨励している華麗で鋭い、当意即妙なやり取りは決して得意になれそうになかったので、私はOUCAでの討論や本物の選挙演説のようなもっとまじめな弁論スタイルの方に取り組んだ。
そしてOUCAで、私は演説の仕方の訓練を保守党本部のステラ・ゲートハウス夫人から受けた。彼女が重視したのは、表現の分かりやすさと明快さで、難しい専門語はできるだけ使わないことだった。選挙集会で候補者が到着するまでの間、前座を務める自分がどのくらい話すべきかわからない時には、多少長めの用意をしておくと便利だった。しかし、私個人にとって、一番貴重だったのは、ユーモアたっぷりだが批判的な聴衆からの質問に答えるとき、自分自身の頭で考えなくてはならないことだった。
2.原爆投下の正当性
1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされたことをラジオのニュースで知った。この問題について思いをめぐらした最初の晩も、後になって圧倒的な破壊の状況の説明を読み、写真を見た時も、原爆投下の決定の正しさについては、何の疑問も持たなかった。私は、連合軍が日本の主要な島に強襲上陸したとしたら不可避だった人命への損失を回避したという大きな理由で、それは正当化されると考えた。
日本はまだ、250万人の武装人員を有していた。私たちはすでに、沖縄決戦で日本人が見せた猛烈な抵抗を知っていた。広島、長崎で示された連合国の軍事技術上の優位性の大きさだけが、日本の指導者に、抵抗しても望みがないことを分からせることができたのだ。
3.党公認の選定法
ダートフォード(ロンドンの東に隣接)地区で党公認の候補者探しをしていた。1949年1月31日、保守党支部執行委員会で演説するように招かれた。私は5人の候補希望者の一人として、15分のスピーチをし、さらに10分間の質疑に応じなければならなかった。
この候補者に選定された後、次のステップは党全国組織の承認を得ることだったが、問題なかった。この後に公認がある。正式な公認集会が、候補者が自分自身を支部の一般会員に印象づける最初の機会である。これは心理的に重要な場面であるが、私にとって一番大きな意味を持っていたのは、父が居てくれ、父と私が初めて同じ演壇に立って集会で演説をしたことだった。
4.EC(欧州共同体)への加盟
保守党・党首になって最初に直面した大きな政治的課題は、英国のEC加盟を巡る国民投票だった。EC加盟で西欧諸国と経済的繋がりができるし、貿易の機会が拡大するのは良いことだ。保守党は、国民投票は憲法に違反すると考えていたが、私はこれを説得し国民投票を実施した。75年6月の国民投票の結果は、67%が賛成、33%が反対だった。
マーガレット・サッチャー Margaret Thatcher | |
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生年月日 | 1925年10月13日 |
出生地 | イギリス イングランド リンカンシャー州グランサム |
没年月日 | 2013年4月8日(87歳没)[1] |
死没地 | イギリス ウェストミンスター |
出身校 | オックスフォード大学 |
所属政党 | 保守党 |
称号 | LG OM PC FRS |
配偶者 | デニス・サッチャー (1915年-2003年) |
子女 | 2人 |
公式サイト | Margaret Thatcher Foundation |
第71代首相 | |
在任期間 | 1979年5月4日 - 1990年11月28日 |
女王 | エリザベス2世 |
在任期間 | 1992年6月30日 - 2013年4月8日 |
在任期間 | 1975年2月11日 - 1990年11月27日 |
選挙区 | フィンチリー選挙区 |
在任期間 | 1959年10月8日 - 1992年6月30日 |
マーガレット・ヒルダ・サッチャー(英語: Margaret Hilda Thatcher[注 1]、1925年10月13日 - 2013年4月8日)は、イギリスの政治家。
首相(第71代)、教育科学相、庶民院議員(9期)、貴族院議員、保守党党首(第15代)を歴任した。
ヨーロッパ及び先進国初の女性首相であり、保守的かつ強硬なその政治姿勢から「鉄の女(Iron Lady)」の異名を持つ[2]。
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