美女と才女
カーラ・ヒルズ  
元米通商代表部代表
生年月日1934年1月03日
私の履歴書  掲載日2013年3月01日
執筆時年齢79 歳

1934年、米国生まれ。アメリカ合衆国の弁護士、政治家。ジェラルド・フォード政権で第5代アメリカ合衆国住宅都市開発長官。ジョージ・H・W・ブッシュ政権(父ブッシュ)では、第10代アメリカ合衆国通商代表を務め、1995年のWTO設立に尽力した。また、日本との通商交渉でその実力ぶりを発揮した。彼女はこの時をこのように語っている。
私は自由貿易こそ、人々にあまねく富と幸福をもたらすと信じてきた。世界が密接に関連しあう中、自由で開かれた貿易は若い世代により多くの機会と成長の糧を与えてくれるのである。そのための他国との交渉において、我々は先方の立場を理解しようと努め、こちらの利害も明確に説明した。お互いに胸襟を開き、話し合う姿勢を見せれば、より良く理解できるものなのだ。
彼女がこの対日交渉の先頭に立っていた頃、日本では「タフ・ネゴシエーター」というニック・ネームが付けられた。実際、そのときは日本の農業をはじめ経済や貿易面でもお互いにタフな交渉を続けていたからだった。

1.初入閣は住宅都市開発省(HUD)長官
1975年2月、フォード政権で司法次官補として働いていた頃、ある日曜日の朝にホワイトハウスから緊急の電話を貰った。相手は後にジョージ・W/ブッシュ政権で国防長官となるドナルド・ラムズフェルドである。急遽、ホワイトハウスへ向かうと待ち受けていたラムズフェルドに「大統領があなたに住宅都市開発省(HUD)長官になって欲しい、といっています」と告げられた。そのまま大統領執務室にいるフォードの面前へと連れていかれ、その場でフォードから再度、「この仕事を引受けてほしい。面白い仕事だよ」と畳みかけられた。
私は受諾し、米国史上3人目の女性閣僚、かつ初の女性HUD長官に就任した。都市開発に縁のない私の指名人事は、ワシントンの政界すずめたちに格好の話題を提供し、批判の種となった。

2.夫婦で公職
フォード大統領、そして彼の政権に関係を持つ人々は私の夫・ロディックも政府に受入れたいと思っていた。私がHUD長官としての宣誓式を済ませるとすぐさま、フォード大統領は夫に対して「大統領顧問」としてホワイトハウスに入って欲しいと要請し、彼はそれも受け入れた。
夫ロディックはこの顧問を務めながら、規制緩和に関する諮問委員会の委員長も任された。当時、夫は運輸・電鉄、電信・電話、証券取引などに関する規制の見直しについて、フォードの手助けをしていたのである。その後、フォードに証券取引所(SEC)の委員長に就任を要請され、受け入れた。夫がSECの委員長になったころ、日本では田中角栄首相がロッキード事件で退陣を余儀なくされたのだった。

3.通商代表部(USTR)代表に
1988年11月末、この年の大統領選挙に勝利した副大統領、ジョージ・H・Wブッシュ大統領からUSTR長官の就任を要請され、受諾した。1989年5月25日、私は包括通商法スーパー301条(不公正貿易国・行為の特定・制裁)に基づき、不公正貿易国として日本を特定した。不公正貿易行為としてはスーパーコンピュータ、衛星、木材製品の3項目を調査、交渉対象品目に指定。知的財産権についても日本の特許制度を監視項目に入れ、日本の対応を監視していく方針も示した。
当時、年間500億ドルという巨額の対日貿易赤字に対して、米議会のいら立ちはピークに達していた。このスーパー301条発令の際、一つだけ心に決めていたことがある。それは決して日本だけをこの対象国に指名しないということだった。ほかの国々にも貿易を制限する政策はたくさんあった。それらを検分した結果、私はコンピュータと知的財産権の分野で規制の強かったブラジル、外国投資規制が目立つインドを指定リストに加えることを決めた。

4.助言に対する大統領からのコメント
USTR代表の私が送る政策メモについて、父ブッシュ大統領は小まめにコメントを添え、返信してくれた。当時作成した膨大なメモの多くは今、機密解除となっており、その一部を公開する。
たとえば、1991年3月29日付けのメモは大統領が同年4月4日にカリフォルニア州で海部俊樹首相との首脳会談に臨む前にまとめたものだ。この中で、私は会談への対処方針について、①総論、②関税一般協定・多角的貿易交渉、③日米構造協議・2国間問題、という3つの柱を立て、こう助言している。
「日本は市場開放に貢献せず、その経済力に見合った指導力を発揮しないまま、オープンな貿易システムの恩恵に浴しています。(略)海部首相は米議会が再び日米の貿易関係にスポットを当てることを懸念しています。(略)首相は自らの懸念を具体的な行動へと変換していく必要があります」などである。これらの助言に大統領は、「鋭敏な関心を持って読んだよ」とか、「カーラ、助けになったよ」という短いが労をねぎらうコメントをくれた。こうした緊密なやり取りは効果があったと思う。

これ以前の話だが、1989年に私はスーパー301条に基づき、不公正貿易国として日本と特定した。しかし、大統領との緊密な連携で、1990年4月27日、父ブッシュ大統領はスーパー301条の対日貿易適用問題について、「今年は日本に適用しない」と発表した。その理由として、大統領は「日本は3月初めの日米首脳会談の後、日米構造会議や人工衛星、木材など個別通商問題で前向きの対応を見せた」と指摘。「はっきりした結果が出るまで引き続き努力を続けなければならない」と注文をつけたものの、この決定により、日米間の貿易問題が新たなステージに入ったのは明らかだった。

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