北海道生まれ。1924年東京大学卒業、内務省に入省。富山県知事、内務省警保局長、警視総監、北海道知事、参議院議員、自治大臣歴任。兄は町村敬貴で元参議院議員、息子に町村信孝がいる。

町村は昭和20年2月に新潟県知事に就任したが、2ケ月後の4月には鈴木貫太郎内閣が成立したのに伴い、警視総監に任命された。そして終戦前夜と当日を次のように書いている。

「いよいよ8月15日を明日に迎える前夜、私は総監室で仮眠をとっていた。するとまだ夜も明けやらぬうちに、『坂下門にいた皇宮警察官が姿を消し、代わりに兵隊が立っている』との報に続いて、『総理官邸に軍が押し入り、総理の私邸も襲われたが、総理は無事』『NHKが軍によって占拠された』などの情報が次々に入ってくる。総理官邸にいた迫水久常書記官長も、官邸を抜け出して私の総監室に見えた。
軍隊の反乱行為は陸軍が解決すべきと考えていたので、かねての打ち合わせ通り、警保局長の水池亮君が陸軍大臣に、そして私は東部軍管区指令官に、すみやかな解決を求めるべく駆けつけた。
東部軍管区指令部は今の第一生命ビルにあって、司令官は田中静壹大将であった。田中司令官は私の顔を見るや、『まことに申し訳ないことを仕出かしました。私はすぐに宮城に向かい、必ず解決して正午の陛下のご放送に支障がないようにいたします』と、決意を表情に出して言われ、司令官は副官ただ一人を連れて宮城に向かった。(後略)

田中司令官は、3月からの空襲により明治神宮や明治宮殿が消失した際、帝都防空の責任者として進退伺を出したが、昭和天皇に慰留されていた。その陛下の緊急時は国家の一大事、と駆けつけた。

後になって、宮城に向かった田中司令官は首謀者の畑中少佐らを集めて厳しく説諭されたので、彼らも非を詫びて自害を遂げ、事件は鎮圧されたのだった。(中略)
8月30日、連合軍司令官マッカーサー元帥が厚木に降り立った。それを伝えるラジオ放送を聞いて、田中大将は、静かに自害されたのである」

終戦後、この第一生命ビルに連合国本部が置かれ、マッカーサー最高司令官が執務することになる。
「田中司令官は首謀者の畑中少佐を集めて厳しく説諭」とあるが、反乱軍も簡単には説得されなかったであろう。田中大将は反乱軍の国を想う純粋な気持ちに同情しながらも、必死の説得に努め、それに成功する。しかし、8月30日に田中大将が自害された原因を、町村は「反乱軍への同情」とその「司令官としての責任遂行」の両面だと察して、哀悼の意をここに書き記したように、私には思える。