東京府生まれ。1931年東大を卒業後、外務省に入省。条約局長、駐ソ連大使を経て事務次官。次いで駐米大使。最高裁判事。プロ野球コミッショナー。
下田はモスクワ滞在2年足らずで、昭和20年3月帰国命令を受けた。当時、ドイツはすでに敗北直前にあり、日本の戦局も極端に不利になっていた。彼がモスクワをたってからソ連国境に出るまでに、通常の所要日数の倍近くかかった。シベリアを東行する列車は日に何回となく待避線へ入れられ、長い列車が轟音を立てて追い越していく。ソ連はいよいよ関東軍の背後を突くべく多数の兵員と大量の武器弾薬を、ソ連国境に向けて急送しつつあった。
下田は6月下旬、条約局第1課長に任ぜられ、上司から7月下旬に入手の「ポツダム宣言」の正確な訳文と解説を作るよう命ぜられた。この訳文が今日でも「六法全書」に載っている同宣言の日本文であるという。下田は当時を振り返り、次のように証言している。
「ポツダム宣言の出た後、終戦工作を進める外務省では、息詰まる緊迫した日が続いた。8月6日広島に原爆投下、次いでソ連参戦をみるや、政府はついにわが国体さえ護持し得るなら、この宣言を受諾するという方針を固め、連合国にこの点の確認を至急求めることとなった。同時にこの宣言は『天皇の国家統治の大権』を変更する要求を含んでいないとの了解のもとに、これを受諾する旨を8月10日スイス、スウェーデン両中立国政府を介して申し入れることにした。(後略)
しかし、実は連合国から送られてきた回答文の中には、日本文に訳す上で見逃すわけにいかない、非常に困った箇所が2つあったのだという。
「これを直訳すれば徹底抗戦派の主張に力を与えることになるのは明らかであった。
その一つは天皇の国家統治の大権の取り扱いで、原文には連合国最高司令官にsubject toとあり、直訳すると『隷属する』になってしまう。これでは大変なことになるので、『制限の下におかれる』と意訳した。
また、もう一つは日本国のultimate form of governmentで、直訳すればまさに『国体』である。原文では、それは『ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとする』となっているので、そのまま訳したのでは、徹底抗戦派が、それでは国体の護持にならぬとして、戦争継続を主張することは火を見るよりも明らかであった。
そこで『最終的の日本国の政府の形態は……』と意訳して、天皇陛下は無キズで、その下にある政府の形態が国民の意思によって自由に決められるともとれるようにしたのである。
かくて8月14日の御前会議でご聖断が下り、翌15日、終戦の玉音放送が行われた。外務省のさんさんたる焼け跡に整列し、これを拝聴したわれわれ一同は、涙の滂沱(ぼうだ)と流れ落ちるのを止めようがなかった」
下田が意訳した上記「天皇陛下の無キズ」「国体の護持」の2つは、日本の根本方針であったから、外務省は連合国側との息詰まる折衝で合意にこぎつけた。
この確認が取れたからこそ、最後の御前会議で陛下のご聖断へとつながった。外務省の高官や下田は自分の命を賭しての交渉だったと思われる。