相撲界を経て大正4年(1915)東京ロール製作所を創業するが、昭和15年(1940)企業統合し、大谷重工業とする。同39年(1964)の東京オリンピックに合わせて、ホテル・ニューオータニを開業し、日本のトップクラスのホテルに育て上げた。また、晩年は相撲界発展のため、蔵前国技館の建設にも貢献した人物である。
 
大谷は明治14年(1881)に富山の寒村に生まれ、一家を養うため農業の小作として生活したが、31歳で上京する。上京の際、母親の作った握り飯と20銭だけ持って上野に出た。深川の木賃宿で15銭払って泊まる。朝飯は3銭の焼き芋だった。相部屋になった顔利きに頼み込み、荷揚げの仕事にありついた。それは、船から陸地に渡された1枚の板を伝って砂糖袋を陸揚げする苦役の仕事だった。
 普通の人夫は肩に1俵乗せるのが精一杯だが、彼は23貫(86kg)もする2俵を軽々と担いだから、みんなはびっくりした。「まるで弁慶だ」と。1日働いて1円28銭を手にし、人夫姿を整えたという。
 その後、ふろ屋、米屋、相撲取り、酒屋などの地道な商売を始めて、コツコツとタネ銭を貯めた。彼はこの「タネ銭の大切さ」を「私の履歴書」掲載時の冒頭で読者に訴え、最後の稿でも、もう一度次のごとく「タネ銭哲学」を強調している。

「自分に力をつけるのも、信用を得るにも金である。私がタネ銭をつくれというのは、いたずらに金を残すのを楽しめというのではない。苦しみながら、タネ銭をためていくと、そこにいろんな知恵、知識が生まれてくるということだ。血のにじんだ金である以上、そう簡単には使えない。それは道理であろう。一本のえんぴつ、一枚の紙を買うにも、よく吟味して買うことになる。万事このようにタネ銭をつくるというのは、ただ“もとがね”を積み上げていくことだけでなく、その金があらゆる知恵と知識を与えてくれることになるのだ。“タネ銭をつくれ”というのは、そうした意である。その結果、もしタネ銭が十万円できたとしたなら、ものの考え方は一万円しかタネ銭がないときより、はるかに豊かに、大きな知恵と計画が出てくるものだ。これが“タネ銭哲学”の効用である」

彼は、「自分で苦労してつくったタネ銭もなく、親の財産や他人の財産をアテにしているような人間に、ロクな人間はいない。また、そうした人間の事業がうまくいこうはずもない。自分の腕を磨くにはともかく、このタネ銭を持たなくてはできない」ともいう。
 この哲学は、私も父親から「親の財産や他人の財産をアテにしているような人間に、ロクな人間はいない」と教えられましたが、多くの読者もこれに同感されると思います。これをどの程度まで実行するかは、各人に問われています。
 それを確認すれば、あとは自分の人生観に照らして「どの程度までタネ銭を蓄えるか」を決め、実践するのみです。