「昭和10年(1935)群馬県生まれ。同32年(1957)慶應大学卒、防衛庁入庁。同34年(1959)日本航空機製造入社。同52年(42歳:1997)島津製作所入社。平成2年(1990)取締役、同6年(1994)常務、同8年(1998)専務、同10年(1998)社長、同15年(2003)会長。」

*矢嶋は42歳のとき航空機部品が縁で島津製作所にスカウトされる。その航空機器事業で実績を上げ、11年後(1988)の53歳で営業本部貿易部に異動となる。航空機しか売ったことのない「飛行機屋」だったので、異動には驚き、不満もあったが、サラリーマンには上から降りてくる人事は天命だと自分に納得させる。多彩な製品群を持つ島津会社で航空機器しか知らないのは、やはりまずいと思い、社業全般に目配りする時期と割り切りことにして、そこで猛勉強をした。
 貿易部は東京支社にあったが、京都の本社工場に足しげく通って島津製品の基礎知識を一から学んだ。分野ごとに先生役の技術スタッフが付いて懇切丁寧な講義を受けたのであった。
 事業は大きく分けて航空機器のほか三つの分野がある。計測機器、医用機器、産業機器だ。主なユーザーは企業の研究所と工場、国や自治体の研究所と理工系大学、病院で、ほとんどがプロ向けばかりであった。
 そして彼は第一線に出ると早速、島津製品に対する市場の評価を現場のトップから聞くことにした。そのときの模様を次のように語っている。

「代理店の社長たちの会議では、クレームが続出した。納期が遅い、値段が高い、部品供給体制が不備、などなどと散々。新顔の副部長に文句をつけやすかったのか、「悪の標本」という究極の悪口まで飛び出して、がくっときた。
 私は言いたい放題言ってもらう作戦に出た。医用機器マーケットの実態や島津に対する率直な評価を知ることはいいことだった。クレームを聞きながら、私は悟った。
 個別の商品を熟知するよりも、はるかに大事なのは市場や顧客のニーズをつかんで、いかに売るかなのだ。」(日本経済新聞 2004.7.21)