金川が社長を兼務しているアメリカの子会社シンテックは、2007年12月期の決算の売上が2300億円、純利益230億円、社員数は約230人で、うち工場が約200人、営業担当はわずか8人である。
 そのうえ、専門の財務担当者はいない。金川の秘書を務めるアメリカ人女性は、売上代金を回収する仕事も兼務しているという。一人当たりの純利益が1億円という、すばらしい利益世界一企業である。
金川は昭和25年(1950)、東京大学を卒業後、極東物産(現:三井物産)に入社する。この商社勤めを12年続け、信越化学に転職。その主な理由は、商社では販売する商品の品質に対する最終責任をもてないことだった。
 メーカーの信越化学に入り、海外事業部で活躍する。ここで、生涯の恩師として尊敬する小田切新太郎社長の信頼を得て大活躍し、抜擢の社長就任につながった。
 金川を大きく成長させ、国内外で評価されるようになった転機は、アメリカのロビンテック社の子会社、塩化ビニール製造・販売のシンテック社のM&Aであり、その後の卓越した同社経営手腕である。
 そして当初のM&A交渉でシンテックに50%出資したあと、ロビンテックから要請された残りの50%を買い取り、完全子会社化して収益力世界一の優良企業につくりあげたからだ。
 このM&A交渉は信越化学にも彼にとっても命運を決するものだったが、交渉成功には、金川の交渉能力、語学力、胆力などのほか、彼に対する小田切社長の全面的支援があり、金川はそれを今もって感謝しているという。
 交渉の席上で、相手方CEOの恫喝的な逆提案には驚いたものの、金川は外国との交渉にはこういう場面はよくあることだとし、それを次のように語っている。
「ロビンテックが信越化学にシンテック株五〇%の買い取りを求めてきた。そこで、信越化学の取締役になっていた私が交渉の責任者になった。
 当初、ロビンテックが希望した売却金額は当社の購入希望額のほぼ倍近く、交渉は難航した。まだM&A(企業の合併・買収)の経験がなかった私には未知の世界だったが、弁護士と公認会計士に一つ一つ確かめながら、粘り強く話し合いを続けた。
 交渉中、コーベットCEOが突然立ち上がり、『我が社は今日の午後、信越化学の銀行口座に買収資金を振り込む。交渉はこれで終わりだ』と叫んだこともあった。一瞬、何のことだか分からなかったが、『シンテック株をそんなに安く評価するのなら、こちらが逆に買ってもいいぞ』という意味だったらしい。
 交渉の駆け引きだが、私もそんなことでは動じない。ビジネスで世界中を歩き、修羅場をくぐり抜けてきたという自負がある。相手が米国企業であっても『アメリカが何だ。私の相手は世界だ』という思いがあった。
 シンテック株の買い取り交渉は七六年に決着した。信越化学の買収金額は一千万ドルで、円換算では約三十億円。今見ると小さな金額のようだが、信越化学の当初利益は七六年五月期決算で十二億七千万円弱にすぎず、当時の我が社にとっては社運をかけた大型買収だった」(「日本経済新聞」2006.5.21)
          *          *
 このM&Aには後日談があります。
 金川は、「買収先企業の売上を常に確実にしておくことが経営の要諦」とし、M&Aの交渉期間中から、その企業の取引先や従業員への信頼関係を築いていたことでした。
 優良な取引先には直接訪問し、誠実な話し合いで業務の継続を確認し、従業員には「解雇は絶対しない」として信頼関係を築いていたのです。
 シンテックの経営が順調に伸びていったのも、買収後の経営が安定するよう、事前にリスク回避に手を打っていたからでした。