石井は「独眼流」のペンネームをもち、相場の予言を次々と的中させたため、彼の信奉者は財界人や経済専門家も含めて多い。
大正12年(1923)福岡県に生まれた石井は、昭和21年(1946)警視庁に入所し、巡査となる。そして同23年(1948)東京自由証券に入社するが、株式新聞の記者などを経て、28年(1953)29歳のときに石井株式研究所を創立し、江戸橋証券も創立する。32年(1957)には立花証券を買収し、江戸橋証券と合併、同社社長となる。

福岡の農家に生まれた石井は、小学校卒業後、鉄工所に勤め、終戦と同時に弁護士を目指して上京する。しかし、巡査となったものの結婚と戦後の猛烈なインフレとで思うに任せず、株の世界に入る。証券会社の無給社員として仕事を覚え、歩合渉外員として独立する。
学識ゼロと自認する石井が経験不足を補うために必死で勉強したのが、失敗の研究だった。明治11年(1878)以来、70年にわたる取引所の歴史を調べ、「株成金」の言葉を生んだ鈴木九五郎や松谷天一坊について本を読むなど、徹底して失敗の研究を行なった。
その結果、相場で大儲けすると、どんな人間でも例外なく奢り、別荘を持ち、女を囲い、書画・骨董にうつつを抜かし、有名人と付き合って身を持ち崩していた。それならその逆をやればよい、というのが石井の結論だった。
そして自分を厳しく律した。朝は6時に起床、6時半にニュースを5分間聞き、新聞を読み、7時にトイレ、朝風呂、10分で食事をとり、7時25分に家を出て8時に出勤。夜の宴会は1次会で失礼し、11時には就寝するという徹底ぶりだった。「株式投資の要諦は、大天井と大底で間違えないことである」の言葉は、株式投資をする人にとって当たり前だが、周囲がまだ経験と勘を頼りにしていたなか、石井の相場観測は因果関係を分析し、数字を使って論理的に結論を導く、次のようなものだった。
「株の世界では早耳筋とか事情通であることが重要であると思われがちだ。私もよく『どんな情報ルートをお持ちですか』と聞かれるが、特殊なものがあるわけではない。私の勉強法は八割が新聞、雑誌、書籍から得た情報や知識で、人の話を聞く耳学問はあとの二割にすぎない。
迷惑になるといけないのでお名前は差し控えるが、私が“簿外資産”と呼んでいるおよそ百人のその道の専門家の方々の意見を参考にして、自分の考えをつくってきた。

相場観測では政策をどう読むかが重要なことは言うまでもない。だが、官僚や政治家は政策を動かす権力を握ってはいても、実際に政策を左右するのは国際収支であり、今なら経常収支の動向である。米国の財務長官発言が為替を動かすのではなく、その背景にある日本の黒字が円高をもたらして、政策を発動させるのだと理解している」(『私の履歴書』経済人三十巻 142、143p)
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相場の成功者である立花証券の石井久と山種証券の山崎種二が一致している株の要諦は、株を「売る」「買う」だけではいけない。「休む」ことも必要だということです。
株で利益を上げた客は「お金を休ませる」ことができなければ、金持ちになれないと警告しています。