樫尾は電子計算機、電卓、デジタルウォッチ、電子楽器、デジタルカメラなど、消費者に受け入れやすい低価格で販売し企業を一流企業に発展させた人物である。
樫尾が5歳のとき、樫尾家は東京で働いていた叔父に誘われて一家で上京した。高等小学校卒業後、家計を助けるために見習いの旋盤工として働き始める。そこで腕のよさが認められ、工場主の勧めもあって、働くかたわら早稲田工手学校の夜学に通学するようになった。
 しかし、学校の時間ぎりぎりまで仕事のため遅刻することもしばしばで、学校を終わって帰宅すると10時過ぎになった。それでも父親はほとんど毎夜、彼を迎えに来てくれ、「今日はどうだった」などと話し合いながら帰った。母親は、彼が帰宅するまでいつも寝ないで待っていてくれたという。
 戦前には事業も比較的順調に行っていたが、終戦後は物資が絶対的に不足しており、いろいろなものを考えては作った。しかし、物を作る機械そのものが足りない。彼は旋盤のほかに、どうしてももう1台、フライス盤がほしかった。
 戦争直後のことで、新しい機械の製造が始まっていない。ツテを頼っていろいろ聞いてみると、長野県諏訪に小型の中古が1台、疎開させてあるという。先方が「譲ってもいい」と言ってくれたため、樫尾は値段の安さにひかれてさっそく買うことにした。しかし、問題があった――このときの、父親の子を思う献身に助けられたという樫尾は、次のように深く詫びつつ感謝の言葉を表している。

「しかし、運ぼうにも自家用のトラックなどないし、戦後の混乱のなかで営業車を雇うことも難しかった。どうしたものか、考えていると、父が『おれが運んでやろう』という。いくら力自慢とはいえ、相手は鉄の塊である。ためらっている私をしり目に、父はさっさとリヤカーを借りてきてしまった。くれぐれも無理だけはしないように言って、結局、父に頼んだ。三鷹から諏訪までの往復約三百キロの道のりを、たった一人でわずか四日余りで運んでくれた。さすがの父も、きつい曲がりが幾重にも連なる笹子峠の上り、下りは往生したらしい。(中略)。
 今、笹子峠の下を中央高速度道路が走っている(笹子トンネル)。あんな重たい機械を父はいったい、どんな思いで運んだのだろう。自分のことで頭がいっぱいで、知らず知らずのうちに好意を期待していたのではなかっただろうか。いつもこの車で通るたびに、そんなことが思い出されて、『申しわけなかったなぁ』と亡くなった父に詫びる」(『私の履歴書』経済人二十八巻 268p)
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 夜学に通っていた息子と毎晩一緒に家路についた話や、三鷹から諏訪までの往復約300kmの道を、重いフライス盤をリヤカーで引いて運んでくれた話からは、父親の息子に対する深い愛情そのものが読み取れます。
 父親の息子に対する期待が、このような形になったのでしょう。樫尾4兄弟の仲の良さは前述どおりですが、事業の成功は父親の期待に兄弟全員が応えた結果でした。