名前が多く索引された登場者

 昭和31年から日本経済新聞の文化欄に掲載された「私の履歴書」に登場した人物は、平成15年末(47年間)までで650名。そのうち経済人のみ(総数243名)を収録した「私の履歴書」経済人38が平成16年6月1日に刊行されました。
 さっそく購入したところ、「別巻総索引」の本が付録として送られて来ました。それを見てみると、経済人の執筆者243名が本文に記している先輩、友人、知人、親族などの名前は約1万3000名もありました。

 「私の履歴書」を書くような経済人たちがどのような人から影響を受けたのか、非常に興味が湧いたのでこれを基に調べることにしました。この234人の文章の中に名前を挙げられた回数から、その人物の同時代の人気度や影響力が浮かび上がるのではないかと思ったのです。今回調べることができるのは、平成15年までに登場した経済人によって名前を挙げられた人たちだけなので、それ以降の経済人、他の政治家や官僚、作家、芸術家などの登場者も加えて調べれば、順位はずいぶん変わると思います。しかし、戦前・戦後の日本経済を牽引し、リーダーシップを発揮した人々が大きく影響を受けた各界のリーダーを知る1つの目安になるのは間違いないと思い、まとめてみました。

1 名前を挙げられた経済人

順位回数氏名
132松下幸之助、永野重雄
229石坂泰三
327小林一三、松永安左エ門
426渋沢栄一、中山素平
525稲山嘉寛
623佐藤喜一郎
722小林中、土光敏夫
821鮎川義介
920渋沢敬三
1019池田成彬、伊藤忠兵衛、植村甲午郎

 苦労人で面倒見のよい松下幸之助と永野重雄が相談役としての筆頭に挙げられています。
 意外に思えたのは、明治初期の国立銀行や基幹産業および教育などに多大な貢献をして子爵となった渋沢栄一は第4位であり、また、東芝の再建や経団連会長として財界総理として評価の高かった石坂泰三は、新日鐵の永野重雄のそれに及んでいなかったことでした。
 その理由を筆者なりに考えてみますと、渋沢栄一や石坂泰三は政府系の仕事や産業全体の仕事が多く、企業単位の個人的な相談ごとは永野重雄や松下幸之助に及ばなかったのではないかと思いました。
 関東では永野重雄と松永安左エ門が、関西では松下幸之助と小林一三が中心となって経営者の経営相談役を果たしたことになります。これは一つの事実発見ではないかと自負しています。

 金融の世界でのリーダーは、「財界の鞍馬天狗」と言われ、企業の浮沈に数多くかかわった日本興業銀行の中山素平(26)が筆頭で、次いで第一次行財政改革の委員長であった三井銀行の佐藤喜一郎(23)、次いで日銀総裁も勤めた三菱銀行の宇佐美洵(14)でした。(中山素平が「私の履歴書」に登場しないのは大変残念なのですが、本人が「出るわけにはいかない」と固辞されたと聞きます。それだけ中山の履歴は、重大で複雑な日本経済の復興裏面史が多くあるのでしょう)。 次いで住友銀行の堀田庄三(13)、富士銀行の岩佐凱実(12)、大蔵次官ののち太陽神戸銀行の合併を成功させた石野信一(9)、住友銀行の磯田一郎、伊部恭之助(8)、都民銀行の工藤昭四郎(8)、東京銀行の堀江薫雄(8)などが影響力のあった人といえます。

2 名前を挙げられた政治家

順位回数氏名
131吉田茂、池田勇人
225岸信介
321田中角栄、福田赳夫
419後藤新平
518大平正芳
617中曽根康弘
715石橋湛山、近衛文麿、佐藤栄作、松本烝治
813芦田均、河野一郎、浜口雄幸、松岡洋右
912伊藤博文、東條英機
1011大隈重信、鳩山一郎、愛知揆一

 戦後の大激動期に政治経済の舵取りをした吉田茂と、「もはや戦後はではない」というスローガンで高度経済成長時代の幕を開けた池田勇人が首位です。所得倍増論でサラリーマンひいては経済界のモチベーションを高めた首相として、池田は高く評価されていると感じました。
 宿命のライバルという関係であった田中と福田が同じ順位であるのも興味深いのですが、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作や大勲位勲章の中曽根が大平よりも低い回数ということには、経営者たちの心のうちでの本当の評価を見たように感じたのでした。
 また、行政人として東京市長や台湾総督として手腕を発揮した後藤新平(19)が第4位の高評価でひときわ光っていたのに驚きました。

3 名前を挙げられた教育者など

順位回数氏名
123福沢諭吉
221末広厳太郎
316小泉信三
415新渡戸稲造、河合栄治郎、河上肇
513中山伊知郎、美濃部達吉、穂積重遠、福田徳三、牧野英一
612我妻栄
711西田幾太郎、上杉慎吉
810大内兵衛、高橋誠一郎
99嘉納治五郎
108賀川豊彦、脇村義太郎、前田多門

 平成15年までに執筆した経済人だけなので、慶應、東大、一橋関係が上位に来ていますが、経済人以外に広げても評価はあまり変わらないように思えます。
 意外なのは柔道家でもあり、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長であった嘉納治五郎(9)が入っていることでした。嘉納は東京大学を出て講道館を起こし、柔道を普及させたので、「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれました。きっと文武両道の人格者として登場人物の尊敬を集めたのだと思います。