カリアッパ師の実像に迫る
令和3年10月23日
千葉の会 楜沢成明
1.はじめに
私は40年ほど前から、ネパールで建築の設計に関わってきました。この間5つほどのホテルを完成させましたが、その際にはネパールの都市や山岳部の人たちから歴史や文化を学んで、それらの設計に生かしてきました。ネパールに人脈も多く、いろいろ助言も求められるので、毎年こちらに来ていたのですが、2018年に吉田勝昭さんのグループに誘われて、ゴルケ村訪問に参加しました。私の知っているネパールはある程度、都市化が進んでいますが、この村はインドとの国境沿いにあり、交通もロバが主体で不便でしたが、純朴で田舎風然とした好感の持てるところでした。この魅力にとりつかれて、2019年、2020年と3年続けて訪問したのですが、天風先生のヨガ修行地やカリアッパ師の実像が、天風先生著書と少し違和感を感じるところも出てきましたので、私なりに、カリアッパ師の実像を天風先生の著書発言から類推して、納得性のあるものにしたいと考えて下記します。
*天風先生の著書から
1.「成功の実現」 1988年出版
(1)1911.5.25 マルセイユ港 出港→日本向け 73p
(2)薄紫のガウンを着た背の高さは私ぐらいの、色の黒さも私ぐらいの男がひとり椅子に腰かけて食卓を前にしていると、その後ろにアフリカ・インディアンが二人立って、孔雀の大きな羽根で飛び来る蠅を追っているんです。 77p
(3)ヨガの大哲学者カリアッパ先生だったんです。 80p
(4)カンチェンジュンガの麓で、あるヘプシャ人種の一人から、もちろんそれはカリアッパ師であったけれど・・ 125p
2.「盛大なる人生」 1990年出版 「天風哲学とその人生観」昭和40年10月15日
(1)ひとたび彼氏の故郷のゴーグ村へ入っちゃうと、主従以上、君臣以上の隔たりがきちゃうんであります。・・相手はその部落で最高地位をもっているバラモン族であります。私は、その部落で最下級のスードラなんです。スードラというのは奴隷ですよ。・・奴隷でなきゃ入っていかれないんですから、当時のその部落には。・・・
この最高地位のバラモン族と最下級のスードラとの間に、なんと3つのセクションがあって、それが非常に厳密な階級で差別されている。バラモン族のすぐ下が王族であります。この民族だけはバラモン族が神の族と言って、王族以上なんです。そして王族の下にクシャトリアというのがいるんです。これは普通の民族のことなんだ。その下に奴隷がいるかと思ったら、そうじゃなくて、今度は馬や羊や豚や犬という家畜なんです。・・・191p
(2)先生の顔を見ても、口をききことができない。顔を見るとすぐパーッと地面に・・。昔の公方様に町人が出会ったときと同じようでしょうなぁ。・・・192p
(3)カリアッパ先生は毎朝必ず、ヨガ哲学を研究している若い人たちから、日本でいえば「おはよう」を受けるために、10人ぐらいの従者を連れて廊下を通られる。我々はむろん、屋根の下へ入る資格はないんですから、庭で姿を見ていた。・・・193p
(4)インドでいちばん盛んなのはヒンズー教、てやつ。それは、いま世界的な哲学になっているヨガの哲学から支店に出されたような分派ですがね。そのほうじゃ宇宙霊と言っている。この名前、おもしろいですよ。・・・346p
3:「心に成功の炎を」1994年(H6)9月発刊
(1)カリアッパ師の年齢?
ここでは太ってるやつは一人もいやしないんだから。「それでいながら、この先生は百を越して6つだというのに、いっこうに体が悪いような様子にはみえねんだがな。・・・121p
(2)カリアッパ師のイギリス訪問
先生は年にいっぺんずつ、英国王室の招待でイギリスに遊びがてらに行く以外は、毎日山に入っているような人です。・・・123p
4.「健康と長寿の食餌」 講演録音 1964年(S39)12月
(1)修行地の場所
その一年半ばかり経って、「お前お前、ここに、どこにいるんだか自分で考えたことがあるかい」 と言うから「考えたことはありません。凡そは想像していますが」。
どこだと思う。「ペルシャの山の中だと思います」。
「違う違う、朝晩お前が見ている高い山あれは世界の有名なヒマラヤマウントだ」。
「あ、あれがヒマラヤの山ですか」。
「そうだ、俺が指さすあれがカンチェンジュンガだ。ヒマラヤのサードピークだ。その麓のフートンにいるんだよ」。(地名にforton はなく、Phodongあり)
(2)カリアッパ師の英語
きわめて不思議なインディアンイングリッシュで
You have better to follow me don’t you?
と言われたとき、 私 Certainly.と
そんな時、私は自分の中の何にも疑わない麗しさを。そんな時は感じなかったよ、
5.「運命を拓く」 1998年出版
- カンチェンジュンガの麓で、あるヘプチャ人種の一人から(もちろんそれはカリアッパ師であったけれども)・・・102p
6.「心身統一哲医学」-人生を甦らせる方法― 中村天風述 1942年出版
(1)彼のインドのバラモン宗ヨーガ哲学の行者はトーモロコシを常食とし、副食物は果実を用いている。 ・・・43p
(2)崇高なるヨーガを、仮に教えを受けるとせば、最も下賤視せる奴隷とならなければ、これを示教せない。奴隷は言うまでもなく犬猫等動物以下の階級に属する者。・・・63p
7.カリアッパ師のキーワード
(1)インド系(ヒマラヤ・カンチェンジュンガ麓のフートンに居住)
(2)ヘプシャ又はヘプチャ人種(レプチャ?か)
(3)バラモン族でバラモン宗ヨーガの哲学者
(4)英語はインディアン・イングリッシュ
(5)毎年、英国王室の招待でイギリスに遊びがてらに行く
(6)この先生は百を越して6つ
(7)風貌:薄紫のガウンを着た背の高さは私ぐらいの、色の黒さも私ぐらい
8.天風先生滞在(1911年~1913年)の時代背景(カンチェンジュンガ麓のフートン地域)
この3年間は英国保護下(1861年~1947年)のシッキム王国でした。この王国は1862年の建国ですが、最初の首都はヨクサム、次はラブデンツそしてトウムロン、ガントクと遷都し、現在は首都でなくインド国の州都としてのガントクです。ガントクの近くにフートン(Phodong)があり、1911年当時カリアッパ師はこの地域に住んでいたと思われます。
また、カンチェンジュンガが見える、ということでは、ダージリン近くのタイガーヒルが有名です。しかし交通は不便ですが、シッキムのガントクの方がよりヒマラヤ寄りになり、より美しく見られます。かつてはヒマラヤの3王国として、ネパール、ブータン、シッキムはが存在しましたが、今では国家としては、ネパールとブータンだけで、シッキムは、インドに合併されて、ひとつの州になっています。
9.カリアッパ師はヘプチャ人種
シッキムの建国史を見ると、「もともとレプチャ人(Repcha)が居住していた」とあります。地名もダージリンの近くにレプチャ・ジャカト(Lepcha Jagat)があり、レプチャ族・レプチャ人が多く住んでいたと類推されます。
レプチャ族・レプチャ人の、150年ほど昔の、写真が残っています。日本人によく似た骨格です。頬骨が出ているのは、我々によく似ています。
10.カリアッパ師はバラモン族のバラモン教ヨーガの哲学者
ウィクペディアによると、「バラモン教というのは、仏教以前のヒンドゥー教に対して西洋の学者が名づけた名前です。ですからバラモン教というのは、古い時代のヒンドゥー教のことです。バラモン教というのは、紀元前2千年頃、西トルキスタンで牧畜を営んでいたアーリヤ人がインドに侵入し、紀元前1500年頃にすっかり征服しました。アーリヤ人は、先住民を支配下にして農耕を学び、階級社会を作ります。階級は、大きく分けて4つあります。
(1)儀式をする司祭のバラモン(婆羅門)、
(2)王族や武族のクシャトリヤ(刹帝利)、
(3)商工業者のヴァイシャ(吠舎)、
(4)奴隷のシュードラ(首陀羅)の4つです。
この4つに入れない最下層の人もありました。」(当時修行中の天風先生)
さらにアーリヤ人は、インドの東の方にも侵入し、先住民も帰依させて社会に組み込みます。こうしてアーリヤ人の宗教とインドの先住民の宗教が混ざったのがバラモン教です。ヨガはインドの諸宗教と深く結びつき、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教等の修行法として行われました。
カリアッパ師はヨガを習得しているバラモン族のバラモン教最高位者ですから、シッキム王国の王様よりも権威があり、師の顔を見ても、下級者は口をききことができない。顔を見るとすぐパーッと地面にひれ伏すことになります。また、カリアッパ先生は毎朝必ず、ヨガ哲学を研究している若い人たちから、日本でいえば「おはよう」を受けるために、10人ぐらいの従者を連れて廊下を通られる。我々はむろん、屋根の下へ入る資格はないんですから、庭で姿を見ていた、と天風先生が語られたのでしょう。
カリアッパ師がバラモン族のレプチャ人種であるとすると、当時の政治的な背景では、イギリスに行くということは、納得できます。チベットに触手を動かしていた、ロシアと中国及びインドに対して、英国がシッキムを保護区とするのは、重要な地域だったからと思われます。つまり、シッキムを通過点として、チベットに関わるためには、シッキム王国の宗教的な最高権威者のカリアッパ師を毎年招聘し、友好関係を密にするという政治的配慮があったと思われるのです。
また、天風先生がカリアッパ師に従いエジプトから船に乗り、パキスタンのカラチで降りて陸路経由でカンチェンジュンガ麓のゴーグ村に着いた理由も頷けます。もしカリアッパ師がインド政府の高官として英国王室に招聘されての帰国ならば、当時のインド首都ムンバイに寄港することになります。
ウィキペディアによると、インドの最初の本格的な路線は1853年に開業したボンベイ~ターネー間約40kmでした。当時、鉄道の主要目的はイギリス(大英帝国)が植民地内における綿花・石炭・紅茶の輸送を図る為であり、本国に迅速に大量に送り込むためでもありました。そして、1900年までに,インドの鉄道網は世界第5位の大きさになっていました。
それならば、天風先生が居られた1911年当時ムンバイから鉄道が全土に敷設されていましたから、デリーや他の目的地に短日間で移動することが可能でした。この便利な交通もを利用しなかったことからカリアッパ師はシッキム王国所属であり、インド国所属人ではなかったことになります。
①シッキム周辺地図 (1911年当時、ネパール王国、シッキム王国、ブータン王国、インド国)当時のシッキム王国の首都はガントクでした。
②カンチエンジュンガ峰に近い州都ガントクは、王宮も大寺院もあった。寺院はヒンズー教もラマ教もあったが、見学する興味はなかった。
11.結論
グル(ヨギの師匠・大聖師)カリアッパ師はインドアーリア系のシッキム王国・最高位者で、バラモン族のバラモン教ヨーガの哲学者でありました。しかし、容貌や年齢・功績などは不明で、現在のインド・シッキム州に行き、当時の文献を調べなければ分かりません。今後の真相解明に楽しみが一つ増えました。
それでも、平成5年(1993)4月に当時の天風会専務理事・清水榮一氏が団長で36人のヒマラヤ行修ツアーを行い、「志るべ」1993年7月号-ヒマラヤ行修の旅足跡―の記載では、「カリアッパ師は、ラマ教系統の最高位の導師(ヨギ)で、正式には、第15世カムリアッパ・カーキヒャブ・ドージェ(1871~1922:51歳亡)ということでした」が否定されることになります。カリアッパ師はバラモン教ですし、100歳もの高齢でしたから。