「私の履歴書」を面白くするのは、登場人物の素材(人間力)が第一だが、担当記者の筆の力量にも大きく影響されると思われます。
担当記者は、登場人物の業界をよく知る10年生ぐらいのベテランが配されるそうですが、なによりも登場人物を生かす文章力が要求されるため、そこにいろいろな苦労が生まれます。
そこで本章では、実際に「私の履歴書」を担当された勝又美智雄氏(国際教養大学名誉教授、元日本経済新聞社記者)にお話をうかがい、まとめてみました。
担当記者の場合
「私の履歴書」欄は、日本経済新聞社編集局文化部が担当し、政治部や経済部など各部の全面的な協力を得て進められています。勝又美智雄氏は、「フルブライト氏のゴーストライターを務めて」(Spring 2001 No.32 EPIC world 12)を例に挙げながら、次のように話してくれました。
人選の仕組み
誰に登場してもらうかは、編集局全体で政治・経済・スポーツなど各分野から候補者を挙げ、文化部が分野別のバランスを考慮しながら絞り込み、本人の内諾を得た後で、最終的には社長が主催する常務会で決定する。
各分野から候補者群を2~3年先までのリストにして挙げたうえで、編集局会議が数ヶ月単位で開催される。そこでは実際に候補に上げても、なかなか本人の受諾が得られず、数年越しの交渉になる場合もある。
勝又氏との面談によると、登場人物本人が30日分の原稿をすべて書くのは、作家や学者など文筆業に携わっている人にほぼ限られる。
政治家、実業家、芸術家などは、ほとんどの場合取材して記者が書く形である。記者が本人に長時間インタビューをして、読みやすい文章にまとめている。
「私の履歴書」の執筆は、事前の準備が全てだといわれる。
文化人の場合は、自著、評伝、週刊誌や雑誌の記事など、手に入る範囲で集めて読み込んでおく。人物像を大方知ってからお目にかからないと「そもそも」から聞くことになり、ご本人に失礼になるからである。「ご著書のどこそこにこう書いてありましたが、それだけとは思えません。裏になにがあったのですか?」というような具合に聞かないと新しい事実は出て来ない。
また、経済人の場合は社史を読むことが前提である。その人が入社したころ、管理職になったころ、社長になったころ、と時代を区切って会社の動きを調べておく。多くの場合、本人がかかわっているので、それが話の手掛かりになりますといわれた。
そして、「私の履歴書」完成の“工程”には3種類の型があるとして、刀根浩一郎氏(日本経済新聞社元文化部長)は「私の履歴書」経済人別巻のなかの「談話取材は裏話がいっぱい」で紹介してくれている。それをまとめると以下のようになります。
a.「一から十」まで完全に自分で書く人
b.回数の仕分けなしに全分量130枚(400字詰め)を書き流し、仕分けを編集に回す人
c.多忙で執筆する暇がなく、「しゃべるからそれをまとめてくれ」と言う人
aのケースでも、まったくそのまま活字にすればいい人と、途中で記者が相談にあずかる場合とがある。
bでは、記者が仕分けしたものを、執筆者が再度、目を通し、OKとなる。
cは、速記あるいは録音テープをとり、それを記者が原稿にし、最後は本人が手を入れて完成品にする。当然ながら、記者がもっとも深く関わるのは、cの場合である。
aの完全に自分で書いた人は、経済人では昭和電工の安西正夫社長、政治家では田中角栄元首相、大平正芳元首相の二人が有名です。
勝又氏によると、この取材は過去においては速記者などとチーム編成で行っていましたが、現在は記者一人で、ボイス・レコーダーとノート取材で記事に仕上げるとのこと。
また、取材から完成までの期間は、6ヶ月~1年はかかり、原稿は31~32回分程度を用意して最終的に30回に絞り込むそうです。
(2)登場予定者が急逝したときなどの対応法
登場者は、原則として現役(新聞掲載時には生存している)であることだそうですが、ときたま、掲載直前や掲載中に急逝されることがある。その場合は登場者の原稿が完成していれば、通常通り掲載されます。2017年までの61年間にそのような事例が4つありました。
掲載直前に急死の場合:廣瀬真一(日本通運会長・元運輸事務次官)
掲載直前に執筆者が亡くなった場合には、文化部の担当記者はその穴埋めに大変な苦労をすることになります。そのときの様子を文化部に20年間在籍し、その間250人近い登場人物との交渉から執筆まで関与された田村祥蔵氏(日本経済新聞社・元監査役・元文化部長)は、その苦労談を次のように書いています。(文芸春秋2007年3月号「日経『私の履歴書』名言録」。
「昭和61年2月に掲載予定の廣瀬真一氏(日本通運会長:運輸事務次官を経て日通に)の場合は、61年1月20日の早朝に亡くなられた。原稿は最後の一回をのぞいて出来上がっており、最終回は読者の反応などを見ながらゆっくりとまとめたい、という余裕の準備状況であった。(中略)しかし、急逝の報を受けて、3月掲載予定のフィールズ賞を受賞の東大名誉教授・小平邦彦博士に急遽お願いした。
20日朝、広瀬家への弔問を済ませたその足で、東京・落合の小平邸に向かい、一部始終を正直に話して『繰り上げて二月にお願いできませんか』と頭を下げると、小平さんは端正な顔を引き締めて『それは困る』と言われた。『まだ一行も書いていません。三月だというから、頭の中では毎日のようにあれこれ考え家内ともいろいろ話し合っているが、それを字にしていない。あと十日しかないことだし、とても無理です』という」
結果的には小平教授が受諾して原稿を間に合わせてくれることになりましたが、全体構想から細部の原稿を書き上げる期間は実質8日間ほどだから、大変なご苦労があったと思われます。田村氏も心配と同時に小平教授に申し訳ない気持ちで、その期間中あまり眠れなかったことと推察できます。
なお、未完の廣瀬氏の遺稿は、翌年の一周忌に日本通運の尽力で「廣瀬真一遺稿集」としてまとめられ、故人との関係の深い人たちに配られたそうです。
また、最近の事例では城山三郎氏が該当します。2007年(平成19)3月に掲載予定で内諾し、前年の8月に執筆を開始、翌年2月には15回分が完成していました。それをもとに、後半をどう書くか担当記者と原稿の打ち合わせをする手はずになっていたが、急逝された。
担当した浦田憲治記者は15回分の遺稿から、城山氏が読者に伝えたかった「悲惨な戦争体験から得た平和や反戦への熱い思い」を、後日(2007年5月19日)の文化欄で「未完の履歴書」として紹介しています。この記事は担当記者として城山氏の読者に「どうしても伝えたい熱い気持ち」を知ってもらいたいという「やむにやまれぬ記者の執念」のように思えました。
そしてこの遺稿は、遺族によって、『嬉しうて、そして…』(文春文庫)の中に取り入れられ、出版されています。
ちなみに、城山氏に予定されていた3月に掲載された登場者は、ねむの木学園園長の宮城まり子氏でした。このときも編集責任者と担当記者は、田村氏と同様ご苦労があったのは想像に難くありません。
驚いたことに、亡くなった廣瀬氏と城山氏の担当記者は、ともに浦田憲治記者で、この未発表をとても残念がっておられました。
②執筆中の逝去:五島昇(東急グループ総帥 掲載:1989年3月1日~31日)
執筆中の逝去の場合は、五島昇氏がこれに該当します。1989年(平成元)3月1日から連載されていた五島昇の場合は、同月20日に亡くなられたため、翌日の21日「私の履歴書」の文中の末尾に、お断りとして「筆者五島昇氏は20日死去された。本稿は生前に用意されていたもので、遺稿として最終回まで掲載します」とありました。生前中に最終稿が出来上がっていれば、最終回まで掲載されることになる例でした。
③遺稿の場合:孫平化(中日友好協会会長 掲載:1997年9月1日~9月30日)
一月前に完全原稿が編集部に届けられたあと、孫氏が亡くなられため、これは9月1日掲載の末尾に=遺稿、署名は筆者=と断わってありました。
前掲の田村祥蔵氏(日本経済新聞社・元監査役で元文化部長)によると、
「今は一ヶ月に一人登場願っているが、担当部が気を遣うのは、いかにして年間十二人の予定者を確保するかということである。日本で最も忙しいに違いない方々を、準備期間も含めると一年近くも何らかの形で拘束しなければならない。お一人お一人の承諾を得るまでが大変であることは、想像いただけるだろう」と書いておられる。
そうだろうなぁ。「書きたい人より、書かせたい人」を読者や記者も望むであろうし、「書かせたい人」はナカナカ登場に「うん」と言ってくれないでだろうから……です。
執筆要請をしたい候補者の人選は、前掲の「人選の仕組み」で書いているように、政治、経済、スポーツなど各分野から推薦が出て、一応編集局会議で承認された人物に執筆の内諾をとらないと常務会にかかりません。
そのため、それぞれの人脈を頼りに候補者に取材依頼をすることになります。
その依頼する場所が奇想天外だったり、意表を突いた場所だったりで興味深いのでここに紹介します。
①料亭の風呂場
「筒井芳太郎氏(当時の文化部長)は、今ではもうみかけることの少ない、昔の“ブン屋”気質あふれる記者であった。新聞記者を天職と信じ、仕事について無制限の打ち込み方をした。例えば、彼の人脈づくりの得意の場所は、料亭の風呂場である。夕方になると、新橋、神楽坂などの料亭に赴き、一献ののち、風呂場に陣取る。そこへ企業の社長、重役などが風呂浴びに入ってくる。往時は、なぜかほとんどの人は、料亭に着くと、まず一汗ながしたものであった」
(刀根浩一郎氏「私の履歴書」経済人 別巻—談話取材は裏話がいっぱい—から)
こうした習慣を筒井氏は利用したのです。顔見知りであれば、ヤァヤァの挨拶となり、初対面であれば名乗ればよいからでした。
筒井時代、「履歴書」には数十人を超える人が登場していますが、そのうち、3分の1くらいの登場者は、この“風呂場でのお願い”に、「うん」と言わされたと書いている。
考えてみれば、文字通り裸同士の付き合いであるし、頼まれるほうも、場所が場所だけに“のっぴきならぬ事情”もあります。それでなくとも、料亭の風呂場にまで張り込まれては、観念せざるを得ませんよね。
この刀根氏も、新人時代、紀尾井町の福田家へ川端康成氏の原稿取りにいったとき、いきなり「まぁ、ひと風呂浴びてきたまえ」と言われ、締め切り間際なのにとイライラしながら檜風呂に入った覚えがあると述懐していました。
- 飛行機など乗り物に同乗
創価学会の池田大作氏が、長い交渉の末、ついに「うん」と言ったのは、中国へ向う機上でした。
国交回復後、初の記者団訪中で、ある記者が中国に赴く折り、香港に向かう(まだ、北京への直行便はなく、香港・深圳ルートであった)機中で、偶然、池田氏を見つけ、「履歴書」執筆を重ねてお願いしたのです。
池田氏いわく、
「いま、空港でも出発間際にお宅の記者から『履歴書』の件を言われた。日経の記者といえば、どの部と問わず、会えば必ず『履歴書』を持ち出す。この飛行機でもそうだ。こう方々で“御用”“御用”とやられれば、うんと言わざるを得ませんな」
(談話取材は裏話がいっぱい)
「執筆応諾は、タイミングによることが多い。せっかくこちらからお願いしても、先方にその気がなく、また先方にその気が出ても、こちらの“熱”がさめたとき、呼吸はうまく合わない。 だいたい、シャイな人は自叙伝は書きたがらない。しかしこちらはそんな人こそ書かせたいのだ」
「執筆応諾は、タイミングによることが多い。せっかくこちらからお願いしても、先方にその気がなく、また先方にその気が出ても、こちらの“熱”がさめたとき、呼吸はうまく合わない。 だいたい、シャイな人は自叙伝は書きたがらない。しかしこちらはそんな人こそ書かせたいのだ」
(談話取材は裏話がいっぱい)
②芝居がかり
「“販売の神様”神谷正太郎氏を口説いた時は、多少、芝居がかったことをした。当時の石本産業第一部長と二人連れだって東京・九段の本社を訪れ、会うやいなや、二人してソファーの上にガバと正座し、『社長、きょうはイエスというまで、ここを動かない覚悟で参りました』。 あらかじめ、周囲から神谷さんにはなしてあったのだが、この日が先途であった。不退転の意気に神谷さんはようやく『ウン』と言った。
(談話取材は裏話がいっぱい)
神谷さんに対してこの作戦を立てたのは、神谷さんが、6百円の月給から五分の一の百二十円に減るにも構わず、日本GMからトヨタに移ったからだ。その理由は豊田喜一郎氏の男の情熱に惚れたからだという」
日本経済新聞社の総力を挙げて「私の履歴書」に出ていただきたい候補者にアタックし、受諾をいただくために涙ぐましい努力をしているのがよく解ります。一般の人なら「そこまでしなくとも」とも思える「風呂場」「航空機」「芝居がかり」のでの説得を読むのにつけ、当新聞社全体の意気込みが感じられます。
石田修大氏(流通経済大学前教授、日本経済新聞社元文化部長)は『自伝の書き方』(白水社)の中で、下記のように紹介しています。石田氏はご自身で記者、デスク、部長として、複数の「私の履歴書」の登場人物を担当した豊富な経験を持っておられる方です。
『私の履歴書』は原則本人書きだが、多忙な人にお願いする場合など、ときに聞き書きをすることもある。聞き書きの場合は当のご本人に疑問点を質しながらまとめるからいいのだが、本人書きになると、いただいた原稿を直さなければならない。書き手はいずれも功なり名遂げた人物とはいえ、必ずしも文章のプロではない。作家の文章なら明らかな間違いや、よほど理解しにくい表現を除いて、原文のまま掲載するが、大会社の会長や役所のトップとはいえ、文章を書きなれていない人の場合はそうはいかない。いろいろ注文をだすことになる。
石田修大氏(流通経済大学前教授、日本経済新聞社元文化部長)『自伝の書き方』211p(白水社)
口述筆記でも、はじめから原稿用紙に向かった場合でもそうだが、すらすらと原稿を書いて、そのまま完成ということはまずありえない。誤字脱字もあるだろうし、わかりにくい表現、同じ言葉の繰り返しなど、読み返せば気になる箇所がいくつも出てくるはずだ。そこで書き直しの作業が必要になってくる。(214p)(中略)。
話すことと書くこととは、似ているようで、まったく別の作業である。自伝の内容とすべき事実が頭のなかにあるとして、それを口に出して話すのはほとんど何の努力も要しない。思いつくまましゃべればいいし、はっきりしなければ「33年だったか、いや35年ころだったか」と言えばすむ。あとから思い出したことがあれば『そういえば、あのときこんなこともあって』と追加するのも自由である。 ところが同じ事実でも、書くとなるとそうはいかない。まず事実を頭のなかで整理しなければならないし、読者に理解してもらうためにはどう書けばいいか工夫しなければならないのである。
担当記者はこのように、登場者が読者に伝えたい内容を読みやすく理解しやすい文章に書き改める必要もあるし、序章の生い立ちから終章までの章立てやクライマックスをどこに置くかなども組み立てて30回分の原稿を仕上げなければなりません。
私(吉田)は日経産業新聞のコラム執筆(筆者プロフィール欄をご参照)を担当したことがありますが、字数制限のある文章を制限内に収めるのは非常に難しく感じました。具体的には1400字の文章が1700字程度になってしまいます。それを担当記者が、内容の本質把握、誤字脱字の修正、引用などの事実確認、字数削減を行ってくれました。これは文章の専門家でなければできないと痛感したのでした。
また、外国人が執筆者の場合は、英語版の「履歴書」を掲載するわけにはいきません。当然ベテランの担当記者が日本語で書くことになります。英語版の「履歴書」を直訳するだけでは日本の読者に本人の魅力や業績の素晴らしさをアピールできない悩みがでてきますから。
前掲の勝又美智雄氏がこの「履歴書」(1991年5月)で初めての外国人執筆担当者として登場しました。交換留学制度の生みの親であるJ・ウイリアム・フルブライトを担当したときの、原稿完成までの苦労を詳細に紹介してくれています。
「インタビューは、自宅でテープに録音しただけで15時間ほど。それ以外にもオフィスで会ったり、電話で長話したりで、軽く20時間は越えたと思う。もちろん、本人から聞いたことだけでは記事はできない。1ヶ月余りの米国滞在中、議会職員や元秘書ら関係者多数に会って証言を採り、連邦議会図書館で大量の資料を集めた。フルブライト氏の母校アーカンソー大学にフルブライト研究所があり、氏の議会活動記録、公文書、書簡類がほとんど寄贈されていることを知って、現地に飛んだ。大学図書館のフルブライト文庫には、関係書類を入れた大型ファイルが2800箱あり、わずか3日間の滞在ではとても見きれない。めぼしいしい資料をざっとチエックし、必要なものをコピーして東京に送ってくれるよう頼んだ。そのコピーだけで1000枚近くあった。 二月末に帰国してから、『履歴書』の体裁に合わせて30回分のプロット作成。テープを起こした速記禄と取材メモをもとに、最初に日本語で書いていった。
「フルブライト氏のゴーストライターを務めて」Spring 2001 No.32 EPIC world 12
日本語と英語では文章構造が異なるため、あとで和訳するのでは話の運び方も違ってしまう。英語には関係詞という便利なものがあって、次々と補足説明していけるが、和訳では文章がギクシャクして読みにくくなってしまう。そこで「読みやすい和文」を最優先し、その英訳を自分で作って同僚の米国人記者にチエックしてもらう。できた英文をフルブライト夫妻にファックスし、加筆訂正に従って元の和文を直す、という手順を踏むことにした」
勝又氏がGE会長のジャック・ウェルチを担当した際には、ウェルチが米国で退職を機会に出版する自伝から抄訳することで日本経済新聞社と合意していた。
「私の履歴書」の掲載直後に同新聞社の出版部から同氏の膨大なボリュームの自伝(上・下巻)が出版されましたが(日経ビジネス人文庫)、それを発売前に魅力ある30回原稿にまとめ上げるのは至難の業のように筆者(吉田)には思えました。
その理由は、勝又氏が「ただし、タネ本があるといっても、新聞連載にそっくり使えるわけではない。30回分の「履歴書」全体の構成づくりから翻訳、そして本人への補足インタビュー、追加材料による執筆が必要になる」と言われましたが、その通りだと思ったのです。
そして勝又氏によると、米国最強のCEO(最高責任者)といわれているジャック・ウェルチGE会長とルイス・ガースナーIBM会長は性格的に対照的であったといいます。前者は陽気でざっくばらんに何でも話してくれたが、後者は無口で必要以外は答えない人物だったと。
ガースナー氏の場合もウェルチ氏と同じく自著の『IBM再生物語-病める巨象-』をベースに「履歴書」を書くことになりましたが、『病める巨象』の内容はIBM在籍の9年間の再建物語であるため、本人の個人的な話はこの本には入っていなかったのです。
それではガースナー氏の全体的な「履歴書」を書くことはできないので、彼の生い立ちや趣味、人生に対する考え方を取材したいと申し込むと、超多忙のため本社で2回、それも45分ずつならOKとの回答が来た。そんな短時間で60年の半生を聞くことは不可能なので何度も交渉したといいます。
その結果、最終的には3回の面談、それも1時間以内というところまでこぎつけた。制限時間内で、聞きたいことはすべて聞かねばならないという事態であったため、その準備も大変。周辺の膨大な資料集め、関係スタッフの証言集めなどフルブライトの担当時以上の苦労だったことでしょう。
それをやりきった勝又氏の苦闘を想像するだけで、筆者(吉田)は「良くぞやってくれた!」と賞賛してしまいます。そして、勝又氏はガースナー氏との「取材を終えて」の感想には次のように書かれています。
「ルイス・ガーナー氏の場合は、取材に苦労をした。ウェルチ氏と会えば気さくに、どんどん話をしてくれた。だが、ガースナー氏は極端なまでに私的なことを語りたがらない人で、若いころの個人的な体験、失敗談、家族のことなどを聞きだすのに四苦八苦した。とりわけ私生活については『それには答える必要はない』『言いたくない』の連続。最初は両親と3人の兄弟の名前も言い渋っていた。(中略)。
ガースナーIBM会長「私の履歴書」を担当して:Spring 2003 No.40 EPIC world 42
面談の制限時間の1分前になると『では次回に』といって立ち上がり、会長室に消えた」
取材相手が愛想の良い人、悪い人、そして秘書などの関係スタッフの協力、非協力などで担当記者の苦労も違ってくるのですね。
*苦労話の極め付きエピソード(寡黙)は、前掲の刀根浩一郎氏(日本経済新聞社元文化部長)が大横綱・双葉山(時津風親方)の担当記者の涙ぐましい苦労話を次のように紹介しています。
⑤「ごっつあんです」で18回(前代未聞の取材)
談話取材は裏話がいっぱい 215p
「双葉山の時津風定次日本相撲協会理事長の「履歴書」は昭和35年(1960)1月末に掲載した。『履歴書』原稿が、談話の形式で出来上がることを知って、時津風さんは登場を承諾、まず記者が取材にうかがった。ところが、時津風さんは、玄関先でその記者に、『ごっつあんです。よろしく』と一言いったまま奥にひっ込んでしまった。
いかになんでもこれはひどい。『ごっつあん』と『よろしく』で、どうして『履歴書』がかけようか。“周辺取材”を始めるにしても、手がかりさえない。
結局、その記者は、このふた言から十八回の原稿をものにしたが、時津風さんの寡黙ぶりは想像を絶するものがあった」
私は、これを読んで思わず笑ってしまい、再度読み直しました。その「私の履歴書」概略は、次のようでした。
・双葉山の子供時代は家業が廻船業で石炭を親子で大阪や広島に運んだが、それが足腰の鍛錬となる。
・相撲界に入り、2年8場所で十両に昇進する。(比較:千代の山、若乃花は2場所、鏡里は3場所、吉葉山や栃錦は4場所で十両)そして、大関2場所で横綱になる。いかに昇進が速かったかがわかる。
・69連勝のストップは安芸ノ海(昭和14年1月の春場所4日目)の外掛けだった。前年夏場所の後、満州や北朝鮮に巡業と慰問したとき、アミーバ赤痢にかかった。衰弱しても各部隊の慰問は横綱一枚看板だったので、一日5回も6回も駆り出されて、へとへとになった。(横綱鏡里は弟子だった)。
・有名な彼の相撲スタイルの「受けて立つ」(後手の先)は、次のように書いている。
「私の場合は、向こうに応じて立つ、向こうが立てば立つ。しかし、立った瞬間には、あくまで機先を制している-そういう立ち方だ。つまり後手の先である。西部劇のピストルの果たし合いのようなもので、相手がピストルに手をかけるやいなや、自分のピストルを抜いている。あの状態である。立った瞬間には、自分の十分な体勢になっているのだ。」
・右目は失明に近い状態だったと、引退後に打ち明ける。彼が6歳ごろ、友達といたずらをしているとき、右目を痛めた。相撲界に入り勝負に際して、できるだけ目に頼らぬように心掛け、右目の影響が自分の相撲に表れないよう工夫した。体で相手の動きを感じとり、体で相手のすきをつかむようにした。また、それゆえに、人一倍修練を積んだつもりだという。
だから逆説的な表現をすれば、右目が悪かったから、自分の相撲が強くなれたということになりそうである。
これを読んで、相撲の奥義をここまで詳細に書き込んだ担当記者のプロ根性に脱帽し、賞賛を贈りたくなります。きっとこの記者は戸籍謄本を手に、時津風親方の郷里を訪問し、小学校の恩師や友人、親戚縁者からいろいろエピソードや人柄を取材されたと推察します。
相撲界では兄弟子や付き人、相撲協会関係者からも相撲の技術や考え方に関する取材をして、18回の連載を完成させたと思われます。まさに、この記者の努力が無ければ、双葉山の「私の履歴書」として後世に残らなかったでしょうから、大相撲ファンは取材記者に感謝しなければなりません。
日本画家の奥村土牛も寡黙な難敵だったようです。
記者がいろいろ質問しても沈黙している時が多く、あるときは黙って応接室を出ていき、しばらく戻ってこない。しばらくして戻ってくると、「本日は話す気になれませんので、また後日」と書いた紙を一枚差し出したとのエピソードには仰天しました。困って狼狽する記者の顔が見えるような気がします。
秘書・広報部長の役割
「私の履歴書」が著される過程で苦労するのは、掲載する側の担当記者だけではありません。登場人物側の周囲の人びとの苦労も並大抵ではありませんでした。
私(吉田)は、経団連会長も務めた新日鐵(現・新日鐵住金)の斎藤英四郎会長の秘書だった関澤秀哲氏(元代表取締役副社長)や米国の日本子会社の広報部長など、多くの「私の履歴書」企業側関与者にも面談し、掲載当時の苦労話をうかがいました。
それによると、裏方の苦労話は大きく3つに分けられます
前掲で「履歴書」完成の“工程”には3種類のケースがあると教えられました。それは、
a.「一から十」まで完全に原稿を自分で書く人
b.回数の仕分けなしに全分量130枚(400字詰め)を書き流し仕分けを編集に回す人
c.多忙で執筆する暇がなく喋るからそれを纏めてくれと言う人 ……の3つです。
しかしながら、aのケースでも、まったくそのまま活字にすればいい人だけではなく、途中で編集側に、「ここまでの内容はいいか、以降はどのような内容にするとよろしいか」など意見を聞きたがる人もいます。
bでは、記者が仕分けし、完成形にした原稿に、執筆者が再度目を通し、確認して仕上げます。
cでは、談話を速記あるいは録音し、それをもとに記者が原稿を書き上げます。そして最後に本人が手を入れて完成稿にします。
経営者が登場する場合、その多くは業界のリーダーでもあり、関係会社の役員や業界関係団体の代表も数多く兼務しているため、執筆する時間など望むべくもなく、大部分はケースcとなります。この場合は、談話取材の内容を担当のベテラン記者が31~32回程度にまとめた上で、登場人物本人に直接了解を取りながら原稿を完成させますから、問題はあまり起こりません。
問題が起きることが多いのは、ケースbの場合のようです。
登場人物本人も文章を書くのが好きであるため、自分が伝えたいこと、印象に残ったこと、この場を借りてお礼を述べたいことなどを、どんどん気のつくままに書いていきます。本人が、人付き合いの良い人、周りに配慮深い人であれば、自然と交友関係の記述が多くなると思われます。
この登場人物が書き流した気配りの原稿を、秘書や広報が、順序を整え、不足部分を補い、ストーリーのある原稿に直さなければなりません。
登場人物は、執筆に興が乗ってくると、メモ用紙や料亭の箸袋、レストランの紙ナプキンなどに、思いついたキーワードや追加エピソードなどをメモしておき、「これを入れてほしい」と秘書などに渡したりします。そのうえ、掲載中であっても、家族や友人から助言を受けると、さらなる追加要望をします。それらを、締切時間と一回分の字数制限の中で追加修正して、記者に平身低頭でお願いすることになります。
ところが、当日に新聞に印刷された内容が何らかの理由で意にかなっていないと、本人から「主旨が違っている。けしからん」と小言をいわれることになります。秘書から担当記者にこの旨、伝えると記者も新聞社側事情もあるため平身低頭で謝ってくれる。そのとき、秘書などは本人の言い分も、記者の事情もわかるのでこの「とりなし」で苦労することになりますから、お気の毒というほかありません。
文章に多少の自信があり、責任感の強い経営者が登場人物であると、担当記者任せにせず、何とか自分で原稿を書こうとします。だいたいこれが、周囲を苦労させるパターンになります。
自分で書こうにも、朝から会議や来客、夜は夜でさまざまな集まりがあり、時には出張と、執筆時間など取れるはずもありません。あげくの果てに、原稿締切間近にホテルにこもることになります。
このようなときは当然、本人の話をもとに秘書たちが片端から原稿を書いていくことになります。「履歴書」に載せるべき事柄を、人生を辿りながら、本人の記憶のままに書き連ねて、規定の原稿量を越えるだけの内容をとにかく作成します。
そこから、重要事項を落としていないかなどの確認をした上で、間違いがないように裏づけとなる資料と首っ引きで削除、追加、修正しつつ規定の量の原稿に仕上げるのですから寝る間などありません。
4~5回分ぐらいづつまとめて、新聞社に渡していくのだそうですが、何よりも本人の満足する出来にしなくてはならないわけですから、このような「取りまとめ」をしなければならなかった方々のご苦労は察するに余りあり、同情してしまいます。
会社側はこの「履歴書」を完成させるのに、担当記者に登場人物の誕生からの年譜や思い出の写真、講演録、社内報、社史、公私にわたる手紙など膨大な資料を提供することになります。
担当記者は自分で集めたものとこれらの膨大な資料を読み、登場人物の歴史や実績・背景を理解したうえで、イメージを膨らまし実物像に迫ることになります。
これらの資料は、掲載30回分の10倍ほどの量になるといわれます。そして掲載が終了すれば、それらの資料はすべて不用になります。ところが、秘書や広報部の関係者たちはボツになった歴史的貴重な資料も多いので、捨てるには「もったいなく」て活かす方策を考えることになります。そのなかには、外国の要人との手紙や会談など歴史的にも重要と思われる資料も含まれているからです。
たとえば、それらをさらに整理し、プロのライターがまとめて単行本として商業出版で広く読者に提供するとか、自費出版して、お世話になった得意先や友人・知人たちに配布するなどが行われます。そうすれば、せっかくの資料や文献が散逸せずに残せるからです。
この出版の場合の作業は、「履歴書」の担当記者の手を離れているので、社内の関係者が中心となって編集することになります。それも経営者の傍に仕え、本人の価値観や人柄を一番よく知っている秘書がその資料の取捨選択を行うことになるようです。
執筆経営者のイメージを損なわないボリュームや内容になるよう、相当「資料を生かす苦労」をされたのだろうなと拝察したのでした。
本章では、実際に「私の履歴書」づくりにかかわれた勝又氏の貴重なお話を基に、その舞台裏に迫りました。
「私の履歴書」は日本経済新聞の読者から最も人気のあるロングラン企画であり、「看板企画」として高評価を受けています。それだけに登場人物も担当記者も力が入るのだと思いますが、秘書や広報部員も巻き込まれて大変苦労されているのが良くわかります。これらの裏方を担当された方々には心から「ご苦労様でした」「ありがとうございました」と申し上げたいと思います。
しかしながら、これらのご苦労に感謝しつつも、それはそれとして再確認したいことがあります。
私(吉田)としては、改めて読者のみなさまと「私の履歴書」というコラムの「主体」を共有したいと思います。
このコラムの価値を長きにわたり高めて来てくださったのは、まさに各「ご登場者ご自身だ」ということです。ご登場の方々の赤裸々な人生ドラマの披瀝が、読者を勇気づけ、人間の人生というものに光をあたえ、「よし、この人にも多くを学んだ。わたし自身も自分で切り拓いていこう」と、その道を先導してくれているからです。
そうしたコラムのご登場者は、一カ月間、執筆者として、ご自身の心血を注いで、ご自分の人生経験を表現しておられます。
もちろん、原稿づくりを始め、多くのスタッフが黒子としてたずさわることにより、約30回の文章が紙面に割り振られ連載は展開されていきます。しかし、その「著者としての責任」は、誰が背負っているのかと問われれば、それは著者ご自身なのです。
例えば、他人を傷つけたり、取り返しのつかない「内容的まちがい」を犯してしまった場合、会社や関係者に多大な迷惑をかけてしまいます。そのとき、対外的、世間的責任は、誰が問われるのか。訴訟の対象にさえなり得るリスクを背負う事態も発生します。それを背負うのは、たずさわったスタッフの方々ではなく著者ご自身と、掲載媒体自体なのです。このような重大な責任を、覚悟をもって担わねばならないのもまた、著者(登場者)という立場なのです。
この最終責任のことを考えると、本コラムづくりのスタッフのご苦労や喜びとは次元を異にした、ご登場者の方々ご自身の重みをここに改めて感じざるを得ません。本章の最後に、歴代登場者の皆様に改めて感謝の意を表したいと思います。