掲載時肩書 | 経済企画庁長官 |
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掲載期間 | 1956/12/11〜1956/12/21 |
出身地 | 大阪府高槻 |
生年月日 | 1885/02/07 |
掲載回数 | 11 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 東京海洋大学 |
学歴その他 | 大阪府立4中 |
入社 | 東洋水産 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 東洋製罐、建設相、通産相、満州工総裁、佐久間ダム 経企庁長官 |
恩師・恩人 | 浜田真名治先生 |
人脈 | 大麻唯男、佐々木信綱、堤清六、ハーバート・フーバー、鮎川義介、小林一三 |
備考 | 政治家になる弁明 |
1885年2月7日 – 1964年2月24日)は大阪府高槻市で生まれる。政治家・実業家。農商務省水産講習所(後の東京水産大学、現在の東京海洋大学)に入所。その後、メキシコ万博漁業に入社し、水産技師として勤務。1917年、東洋製罐を創立。1942年、満州重工業開発総裁に就任。1947年公職追放、1951年同解除。1952年、電源開発総裁に就任。佐久間ダム建設などを成功に導いた他、御母衣ダム建設において「荘川桜」移植事業を発案、推進した事でも知られる。満州重工業開発株式会社副総裁・第2代総裁、電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。
1.日本の将来(生きる道)
明治34年(1901)、大阪府立第4中学に浜田真名治先生がおられた。先生は政治地理の時間にこういう講義をされた。「日本の人口は4千万だが、72年目に倍になる。したがって日本でとれる食糧だけでは全人口はまかないきれない。外国から食糧を輸入しなければならないが、そのためにはどうしても工業を盛んにして工業製品を輸出しなければならない。ところが日本の工業は殆ど繊維工業だ。この繊維工業は中国やインドは自分で工業化する時代が必ず来る。そうなれば日本の繊維工業は立っていかない。ただ一つ日本の生きる道は日本の四面を覆っているこの広い海洋を開拓するほかに方法がない。水産製品を外国に出して食糧を輸入する道が残されているだけだ。日本にはその水産について世界唯一の専門学校がある。それは農商務省直轄の水産講習所である」と。
これを聞いて、私の一生は水産講習所に入って水産をやることにしようと決めてしまった。
2.小林一三氏のビジネス感覚
明治44年(1911)3月、私は5年の米大陸生活を終えて日本に帰って来て、32歳で東洋製罐を設立し、小林一三さんに相談役として入ってもらった。月給は60円しかくれない。これでは飯も食っていけないので、お寺の古い部屋を借りて結婚生活をした。その後少し生活状態がよくなってきたので、小林さんに「郊外の小さな家を売ってくれ」と言ったら叱られた。「お前は長らく外国にいたのではないか。北の方に工場を持ってしかも自分の家を北に設けるとはアホウなことだ。南に住め。そして大阪の街を見て通るようにしなければ時勢に遅れてしまう」と。このとき私はいいことを聞いたと思った。
そこで天王寺に小さな家を借りて毎日電車で通った。当時の電車は往復7銭で、途中で乗り換えるとき乗車券をくれ、それは30分か1時間ぐらいは有効だった。私はその乗り換え時間を利用して得意先の商店を回り、帰りには材料を買うとかして働いた。
3.ハーバート・フーバー大統領のビジネス感覚を採り入れる
明治44年(1911)に来日したスタンフォード大学総長のダビッド・スター・ジョルダン博士が後に大統領になったフーバー氏を紹介してくれた。その時フーバー氏は経営者だったが、いろいろ話し合い、氏のビジネスの考え方が東洋製罐をつくってからも相当に影響を与えてくれた。
まず、第一に大きさの違っていたレンガを統一し窓枠を一つにしてしまったこと。調べてみると案の定1ポンドカンと称するものが270種類もあった。ちょっと見たところ分からないが、ずるいやつはだんだん形を小さくしてしまい、同じものだと思って買ってみると中身が少なかったりする。そういうことではいけない。規格を統一することはカン詰をよくするゆえんであるということが、東洋製缶の思想になり、やがて容器が決まって世界のどこへ出しても恥ずかしくないものができた。こうして日本の東洋製缶が発展したわけである。
4.私の弁明
私はもともと政治家になろうとは思わなかったし、入閣する時も代議士にならぬという約束だったが、大臣に就任してみると、そうもいかぬ。人から勧められて1955年の総選挙に出馬したのだった。
高碕 達之助 たかさき たつのすけ | |
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科学技術庁長官時 | |
生年月日 | 1885年[1]2月7日 |
出生地 | 大阪府島上郡三箇牧村 (現・高槻市柱本) |
没年月日 | 1964年2月24日(79歳没)[1] |
出身校 | 農商務省水産講習所 |
前職 | 電源開発総裁 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 正三位・勲一等旭日大綬章 |
配偶者 | 高碕いと |
第6代 科学技術庁長官 | |
内閣 | 第2次岸内閣 |
在任期間 | 1959年1月12日 - 1959年6月18日 |
第16代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第2次岸内閣 |
在任期間 | 1958年6月12日 - 1959年6月18日 |
初-2代 経済企画庁長官 | |
内閣 | 第2次鳩山一郎内閣 第3次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1955年7月20日 - 1956年12月23日 |
第8-9代 経済審議庁長官 | |
内閣 | 第1次鳩山一郎内閣 第2次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1954年12月10日 - 1955年7月20日 |
選挙区 | 大阪3区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1955年2月28日 - 1964年2月24日 |
高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年[1]2月7日[2] - 1964年2月24日[1])は、日本の政治家・実業家。満洲重工業開発株式会社副総裁・第2代総裁、電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。
大阪府島上郡三箇牧村(現在の高槻市)で生まれる[1]。旧制茨木中学を卒業後[1]、農商務省水産講習所(後の東京水産大学、現在の東京海洋大学)に入所[1]。その後、メキシコ万博漁業に入社し、水産技師として勤務[1]。1917年、東洋製罐を創立[1]。1938年、東洋製罐専修学校(後の東洋食品工業短期大学)を設立[1]。1942年、満洲重工業開発総裁に就任[1]。1947年公職追放、1951年同解除[1]。1952年、電源開発総裁に就任[1]。佐久間ダム建設などを成功に導いた他、御母衣ダム建設において「荘川桜」移植事業を発案、推進した事でも知られる。
1954年8月に電発総裁を退いた後、12月に鳩山一郎内閣で経済審議庁長官に就任。翌1955年、旧大阪3区から衆議院議員に初当選。以後連続当選4回。同年経済審議庁廃止に伴い、初代経済企画庁長官に就任。1958年、岸信介内閣でも通商産業大臣・経済企画庁長官・科学技術庁長官を兼任して入閣。1962年、中華人民共和国を訪問。廖承志との間で日中総合貿易(LT貿易)に関する覚え書きに調印した。