掲載時肩書 | 東京電力社長 |
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掲載期間 | 1960/03/09〜1960/04/04 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1898/02/14 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 62 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 東商予 |
入社 | 東京毛織 |
配偶者 | 見合娘22歳、自分28歳 |
主な仕事 | 日本陶管、品川白煉瓦、日本耐火 煉瓦組合理事長、東京電力社長、国家公安長 |
恩師・恩人 | 伊藤多兵衛 |
人脈 | 御手洗辰雄、新明正道、中山伊知郎(1年先輩)、石橋湛山、永野重雄、平生八三郎、植村甲五郎、諸井貫一、桜田武、藤井丙午 |
備考 | 関東大地震、スポーツ万能(友人多し) |
1898年(明治31年)2月14日 – 1976年(昭和51年)8月27日)は静岡県生まれ。実業家。1943年3月日本耐火煉瓦統制取締役社長。1946年11月復興金融委員会委員(1950年5月辞任)。持株会社整理委員(任期1950年10月まで)。1950年3月国家公安委員会委員。1951年5月東京電力株式会社取締役。1952年3月国家公安委員会委員長。1958年12月東京電力取締役社長。1959年1月品川白煉瓦取締役会長。5月日本電気協会会長を歴任した。
1.27歳で取締役に
大正12年(1923)9月の関東大震災の後、資本金50万円のちっぽけな日本陶管会社に就職した。社長は伊藤多兵衛さんで、明治44年出の東京商大の先輩であり、知性の高い進歩的な人であった。私はここで工場長の形で仕事をやらせられた。陶管会社では、生産成績が思うように上がらなくて、社長は苦慮していた。私は1年間調べた結果、その解決策を胸に持っていたが、上司の手前差し控えていた。
あるとき、社長を交えた幹部の集まりの所で、どうしてもこれ以上能率が上がらないのかと伊藤さんがなじったので、みんなが黙っていた。「青木君、どうだ」と私に向かって聞いてきた。そこで初めて「その道はあります。5割は間違いなく上がります」と言い切った。どうするのだと、傍らにおった専務が聞いてきたので、生産に関する限り一切私に任せていただければ、必ず実行して見せますといった。すると伊藤社長が「青木君に任せてみようじゃないか」との一言で、私は生産一切を任された。
私は工場の生産工程の原料処理、生地成形、乾燥、窯入れ焼成、製品置き場などの能力を細かく調べてその一番の隘路であるところを克明に組合せ、活用することによって、現在の5割増までの生産ができることを確かめていた。私の構想をそのまま実行に移すと、その成果が現れて増産ができた。伊藤さんは非常に喜んで、抜擢して私を取締役の列に加えた。そのとき私は27歳だった。
2.永野重雄氏と共通の願い
昭和5年(1930)ごろの大不況時代、私が品川白煉瓦会社の支配人になって間もなく、今の富士製鉄社長永野重雄君と意気投合して交わりも結ぶようになった。永野君は当時、富士製鋼という、これも品川に劣らぬボロ会社の経営に当たっていて、私と同じように借金で苦しんでいた。夕方引けてから二人でバーに行き、ビールのグラスをあげて現代の社会を罵倒し、財閥を非難し、わけても金融界に対する不満をブチまけあった。我々の一生の願いは、お互いに床柱の前に座り、銀行屋を前に侍らすことであった。彼も私も今から考えればバカな話ではあるけれども、当時の不遇なる二人の青年実業家の実感だった。
3.戦争末期の時局懇談「火曜会」
昭和19年(1944)になり、耐火煉瓦統制会社に品川白煉瓦が改組されるに及び、私は社長を退き顧問となり、新たに海軍中将が社長に任命された。この時代から敗戦の様相は濃くなってきた。戦争が進むにつれて、言論は極端に統制されて、何事によらず真相は掴み得なかった。そのために数年前から植村甲午郎君、諸井貫一君、矢野一郎君、麻生多賀吉君たち10数人と火曜会というのをつくって、軍人や評論家を呼んでいろいろ時局談を聞いていた。ミッドウェーの敗戦なども、いち早く知っていた。当時の軍人でも、大将連は少し頭がボンヤリしていたのではないかと、思われるフシがたくさんあった。だから私は、誰に対しても閣下という言葉は使わなかった。いつも「さん」づけだった。
林銑十郎氏は、林さんと呼ばれて私の顔を見てニンマリ笑った。末次信正、高橋三吉の両大将は、心持ちプンとした顔つきをした。しかし荒木大将ほか将師連は、全然気にかからなかったようだ。私のひそやかなレジスタンスだった。火曜会の面々はこれを知るや否や。