掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1987/12/01〜1987/12/31 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1920/12/24 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 広島高 |
入社 | 作家 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 海軍、暗号解読担当、作家、山本五十六 、米内光政、井上成美 |
恩師・恩人 | 志賀直哉 谷川徹三 |
人脈 | 村上兵衛、遠藤、吉行、池島信平 |
備考 | 東大文17科 |
1920年(大正9年)12月24日 – 2015年(平成27年)8月3日)は広島県生まれ。小説家、評論家。
主要作品は、戦記文学や記録文学である。志賀直哉の最後の内弟子として薫陶を受け、その文学上の後継者である。当代一の作家と紹介されることがある。この「履歴書」には、「わが食と言葉の履歴書」を中心に書いている。
1.東大入学当時の実情
私の東大国文科入学は、昭和15年4月、入学試験はあったけれど無きにひとしかった。当時の文学部に17学科があり、インド哲学、フランス文学、言語学、教育学等々、16科までは志望者の数が定員に満たない。つまり、無試験だった。国文だけ、30名の定員に対し、全国の高等学校35名の応募者があった。それで、試験ということになったのだが、これは落ちる方が難しい。かりに落ちても、第二志望の独文とか第三志望の美学とかへ廻してもらえるから、文学部そのものを落第という憂き目には絶対あわない。
この時から20数年後、上野の旅館の一室で、私と吉行淳之介とが罵り合いをしながら花を引いていた。そばで観戦中のおかみが、何のきっかけだったか、あなたたち大学はどこかと聞いた。「二人とも東大だよ」、私が答えると、おかみさんが急に笑い出した。「あらいやだ、ご冗談ばっかり」。
そう思われても仕方がないような東大生には違いなかった。
2.特務班配属・・暗号解読担当
海軍士官として、陸戦、対空、機雷、通信のうち、どれを専攻したいか希望を述べよと言われたとき、私は迷わず「通信」を選んだ。予備学生出身の少尉が戦艦や航空母艦の乗組員になりたかったら、暗号士として乗せてもらうのが一番早道と聞かされていたからでもある。
任務は、無線通信を傍受し分析し、暗号を解読するのが仕事であって、以後4か月半、久里浜の通信学校で「頭の悪い奴は特班に用がない」と叱られ叱られ、推理小説もどきの勉強と実習を続けた末、少尉任官、軍令部特務班配属、東京の自宅または下宿から通勤という、サラリーマン士官の境遇になった。
私の部署は、対中国の諜報作業担当であった。東大国文科の時、中学校の国漢の先生の免状をとるのに、シナ哲学シナ文学の単位が必要だったのが役立った。
重慶にいる蒋介石政権の外交暗号を扱うのだが、これが列国に10年以上遅れていて、よく解ける。傍受した暗号電文に一定の法則を当てはめていくと、「麦克阿瑟」(マッカーサ―)、「蒙巴頓」(マウントバッテン)などのような固有名詞も浮かび出して来たりして、仕事に興味が持てた。
結局、私はある種の言語の才をもって海軍士官の務めを果たすことができた。
氏は、’15年8月3日94歳で亡くなった。「履歴書」に登場はS62(1987)年12月の66歳のときであった。戦後まもなく、武田泰淳、三島由紀夫、野間宏ら「戦後派」作家が登場したが、1950年代に入ると遠藤周作、安岡章太郎、島尾敏雄、小島信夫、庄野潤三らの「第3の新人」が現れた。その中核に位置するのが阿川だった。当初、第3の新人には社会に順応しにくい小市民的なイメージが付いて回ったが、時代が経つにつれむしろ積極的に社会をリードする勢力となった。日経の「履歴書」には、遠藤・安岡・庄野・阿川と4人も登場しており、日経ビジネス文庫から「第3の新人」で出版されている。
東大国文科を繰り上げ卒業後、予備学生として海軍に入隊。士官として通信諜報の任務に就く。中国・漢口で終戦を迎え、帰国後は志賀直哉に師事して小説を執筆。自らの体験をもとに、「山本五十六」「米内光政」「井上成美」の海軍提督3部作でも注目を集める。海軍の歴史を踏まえながら、体験者の談話を盛り込む手法で、人物像を魅力的に描き、戦争小説の新境地を切り開いた。また、事実を積み重ねることで師の生涯を描いた評伝「志賀直哉」では、弟子から見た恩師像を確立している。
氏の「履歴書」には次の面白い記述がある。昭和15年4月の東大入試は無きにひとしいものだった。当時の文学部は17学科があり、インド哲学、仏文学、言語学、教育学などであるが、16科までは志望者の数が定員に満たない。国文だけ30名の定員に対して35名の応募あったため、試験が行われた。これに落ちても第二志望を仏文、独文など、これもダメな場合、美学などの第3志望すれば全員入学ができたとある。
また、海軍の予備学生に採用された時の口頭試問では、「横浜・シアトル間はシーマイルで何マイルあるか」「赤道を実在の帯と仮定せよ。この帯を3メートル延ばすと、帯、すなわち赤道は地表面からどれだけ浮き上がるか」「蟻の歩くスピードは何ノットか」などを訊かれた。これらの回答は、数字の当否より、頭の回転がどのくらい速いか、意表の衝かれた時、どんな反応を示すか、それを見ていたのだろうと思うとある。
阿川 弘之 (あがわ ひろゆき) | |
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1966年4月6日撮影 | |
誕生 | 1920年12月24日 日本・広島県広島市 |
死没 | 2015年8月3日(94歳没) |
墓地 | 鎌倉市の浄智寺 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 東京帝国大学国文科 |
活動期間 | 1952年 - 2013年 |
ジャンル | 小説 随筆 |
文学活動 | 第三の新人 |
代表作 | 『春の城』(1952年) 『雲の墓標』(1956年) 『山本五十六』(1965年) 『米内光政』(1978年) 『井上成美』(1986年) 『志賀直哉』(1994年,評伝) |
主な受賞歴 | 読売文学賞(1953年・2002年) 新潮社文学賞(1966年) 日本芸術院賞・恩賜賞(1979年) 日本文学大賞(1987年) 野間文芸賞(1994年) 毎日出版文化賞(1994年) 文化勲章(1999年) 菊池寛賞(2007年) |
デビュー作 | 『春の城』(1952年) |
子供 | 阿川尚之(長男) 阿川佐和子(長女) |
親族 | 阿川甲一(父) 増田清(義父) |
影響を受けたもの | |
ウィキポータル 文学 |
阿川 弘之(あがわ ひろゆき、1920年〈大正9年〉12月24日 - 2015年〈平成27年〉8月3日[1][2])は、日本の小説家、評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者[3]。広島県名誉県民。日本李登輝友の会名誉会長。
海軍体験を基にした戦争物や私小説的作品、伝記物で知られる。代表作として『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3部作(海軍提督三部作[4])『山本五十六』『米内光政』『井上成美』などがある。
法学者の阿川尚之は長男、タレント・エッセイストの阿川佐和子は長女。