掲載時肩書 | プラザホテル社長 |
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掲載期間 | 1982/10/12〜1982/11/05 |
出身地 | 広島県可部 |
生年月日 | 1896/07/25 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 86 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 住友銀行 |
配偶者 | 見合:熊本娘 |
主な仕事 | 社長、大阪フィルハーモニー、チャーチル会、大阪テレビ、ホテルプラザ |
恩師・恩人 | |
人脈 | 倉田百三、谷川和穂(旧友息子)、谷口豊三郎、堀田庄三(後任)、日向方斉、朝比奈隆、渋澤敬三、梅棹忠夫 |
備考 | 音楽・絵画 |
明治29年(1896)7月25日~- 1986年12月16日)は広島県生まれ。住友銀行頭取、大阪テレビ放送社長、朝日放送社長、ホテルプラザ社長を歴任した実業家。住友グループの社長会である白水会の名付け親でもある。息子・鈴木雍も住友銀行に入り、住友クレジット社長に。
1.井植歳男(三洋電機)さん
思い出深い人に井植さんがいる。私が大阪・西野田支店時代にお会いした。鉄材の不足から戦時中、物資輸送中の木造船を造ろうということになり、井植さんは流れ作業式の建造計画を立てられた。これは鋭い才能を持った人だと驚いた。戦後、義兄の松下幸之助さんと別れて、事業を起こすことになって、融資を求めてこられた。現在の日本には、自転車が何台あって、それに一つずつランプを付ける。ランプの寿命はこのくらい、そうなると、需要はこのくらい、だから生産規模は、と緻密な計算ができている。
計画の大きさと先見性、細かいところまで調べ上げてゆく周到さ。こういうやり方で、手掛けた事業は、ことごとくうまく成功していかれた。大変な人だなぁ、と感銘を深くした。
2.住友本社の方針
昭和22年(1947)8月、私は51歳で住友銀行の社長となった。上におられた方々が、すべて追放の対象となったためである。その年の2月、取締役(同時に常務取締役)に選ばれてからわずか半年後のことで、意外な成り行きに唖然としたものである。
住友はかねて政治に関与しない立場を守り、経済一本で押し通してきた。しかし国を挙げての戦いにそんなことはいっておられない。総理事の小倉正恒さんは、政府の要請に応じ、昭和15年から16年にかけて、無任所大臣、大蔵大臣を務められた。住友から初めて政界入りをされた、その大臣の秘書官として活躍したのが、私の最も親しい友人の一人、住友金属工業会長、関西経済連合会長の日向方斉氏である。
3.朝比奈隆氏と関西交響楽団
ハルビンの交響楽団の指揮者をしていた朝比奈さんが、終戦を迎え帰国して間もないころ、住友銀行に訪ねてこられた。朝比奈さんとは、初対面から妙にウマがあった。心の荒廃を癒すのに音楽ほどいいものはない、日本第二の都市大阪に交響楽団ひとつないのはおかしい、ぜひいい楽団をつくりましょう、となった。
NHK大阪放送局でクラシック音楽を放送するため、朝比奈さんが呼び掛けた京阪神のプロ・アマの人たちは、シンフォニーを演奏できる規模に達した。昭和22年〈1947〉4月26日、「関西交響楽団」は朝日会館で第一回定期演奏会を開いた。ナマの音楽に飢えていた人たちはこの演奏を熱狂して迎え、その時演奏したドボルザークの「新世界より」に涙を流して聴き入っていた。寄せ集めの楽団員で、技術も楽器も、その後身である今の大阪フィルとは比較にならなかったものだが、音楽はこんなにも人の心を打つのか、と私も胸が熱くなった。
支援団体として「関響友の会」がつくられることになり、私が代表世話人を引き受けた。世話人は、日本生命の弘世現、近鉄の佐伯勇、倉紡の大原総一郎、阪急の小林米三、三菱銀行の磯野正雄、デザイナーの田中千代、外科医の白壁武弥といった方々で、豪華な顔ぶれであった。
4.ホテル業界の古い風習
私は大阪には東京に比べて国際的に通用するような格調高いホテルが少ない、差し当たって昭和45年開催の大阪万博に対応できるホテルを建てようと思った。そこで昭和43年(1968)2月にホテルプラザの社長になり、3か月後、朝日放送の社長を辞任した。
私が経営に乗り出したころは、ホテル業界に古い習慣、体質が随所に残っていた。たとえば、従業員は勤務中、腕時計や指輪の着用を禁じられ、髪型もうるさく規制されていた。そのくせ幹部は、試食と称してホテルのレストランで昼食をとるのが普通で、封建的な空気が隅々にまで染み通っていた。
一番問題なのは、従業員の給与が他産業に比べてかなり低いことだった。社員食堂にしても、経費がかさむという理由で、わざわざ社外の給食専門業者に委託していた。お客様が快適な部屋に泊まり、高級料理を楽しむホテルで、従業員は低い給与、粗末な食事に甘んじて気持ちよく働けというのは、無理な注文である。私は給与を思い切って引き上げ、従業員の食事は、大勢いるホテル内の料理専門家に任せることにした。従業員やその家族は、休日といえどもホテルのレストランを利用することは許されないというのがホテル界の鉄則だったが、私は遠慮せずに食事をするように呼び掛けた。
鈴木 剛は日本の人名。