野村輿曽市 のむら よそいち

化学

掲載時肩書電気化学工業社長
掲載期間1966/09/25〜1966/10/21
出身地滋賀県湖東
生年月日1889/10/15
掲載回数27 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
一橋大学
学歴その他府立四中
入社北海カーバイド
配偶者印刷業娘
主な仕事電気化学工業、信越化学、直江津 カーバイド工業会長、石灰窒素
恩師・恩人藤原銀次郎(養父友)、藤山常一
人脈佐藤市郎(元総理の長兄)、足立正、小坂順造、出光佐三、馬越恭平(電気化学初代会長)岡田完二郎・川村音二郎
備考代々庄屋(酒造業)、義太夫、茶の湯
論評

明治22(1889)年10月15日‐昭和50(1975)年1月12日、滋賀県生まれ。大正・昭和期の実業家。北海カーバイド工場(電気化学工業の前身)に入り、大正4年青海工場長、昭和26年社長。30年日本カーバイド工業会会長。カーバイド、石灰窒素工業の発展、戦後の石油化学進出などに尽力した。

1.藤原銀次郎氏の訓え
私は入社時から藤原銀次郎氏に多大にお世話になった。藤原氏は、松江日報から三井の中上川彦次郎氏に招じられて三井に移り、最後は王子製紙で大奮闘された方である。氏の信念は「一人一業主義」。
 昭和14年(1939)ごろのことであった。当時私は新潟県・青海の工場長で、工場発展につれて、青海町をはじめ地域社会における私の発言力が追い追い強くなっていた。となると、当然、政党関係者の注目が高まり、青海が所属する新潟県第四区から衆議院議員に立候補するようにと熱心に薦めてきた。定員3名の中で当選の見込みは十分であった。選挙民の要望を入れてくれということになったので気は進まなかったが、私は上京してまず近藤銕次専務と相談した。近藤専務はともかく藤原会長の承認を得てからにしようと言われた。私は近藤専務と一緒に藤原氏のところに伺い、話を切り出した。
 ところが藤原氏は即座に「やめておけ」と否定してしまったのである。実業家は政治に走ってはいけない。政治は政治家の領分で、実業家は政治家を通して期待する政策を実現するものだ、というわけである。これは肚にこたえた。これも氏の一人一業主義からなのである。以後、私は地元町村の行政に誠意をもって協力する以外は、県会や国会に手を出すことなく、政経一如の観点で内外に関心を払う心構えとなった。

2.カーバイドと私
私がカーバイド工業協会会長に推された昭和26年(1951)のわが国の現状は、22社27工場で、生産は年産67万4千トン、西独、東独、アメリカに次ぐ世界4位という時であった。
 カーバイドは、正式にはカルシウムカーバイド、別名炭化カルシウムという名である。これは、石灰石を焼いて生石灰にしたものをコークスと混ぜて電気炉に入れ、高い温度を加えて作られる。さらにこのカーバイドに窒素を化合させると石灰窒素という肥料になり、水を加えるとアセチレンガスが発生する。昔なつかしい縁日の夜店で、独特のにおいを漂わせた白い炎の裸火は、このアセチレンガスに火を灯したものである。これまでアセチレンガスは、主に灯火や溶接用に使われていたが、最近では種々の製品の原料になっている。塩化ビニール、ビニロン、合成ゴムなど現在市場に出ているだけで20種類以上、実験室の段階で出来ているものや理論的に可能とされている分野まで含めると実に夥しい数になる。これも、有機合成化学、特に高分子化学の技術が進んだおかげである。

3.義太夫のコツ
私の生地は琵琶湖湖東の山村であるが、この地方は古くから義太夫が普及していて、例えば長浜の「子供歌舞伎」などの伝統も今なお残っている。義太夫は他の芸事のような流派というものがない。名人芸の伝承で今に伝承しているので、先輩の芸風を慕って励んだ人から人へと伝わった。
 私がこの道に力を入れ出したのは昭和25年(1950)ごろからで、四代目鶴沢清六師に巡り会ってからである。この人は、三味線の大家で新曲の節づけもやり、無形文化財にもなった名人である。清六師は、いつも別に難しいことは言わぬ人であった。が、接しているうちに私なりに義太夫のコツを会得したのである。
その要領はだいたい、「姿勢を正しくする」「肩の力を抜く」「下腹部に力を入れる」「声はのどにさわらぬように鼻に抜く」「句の間の句切りをハッキリして、まくれぬようにする」といったぐあいである。そのうち、一人稽古では物足りなくなって、木挽町の料亭山口で「山義会」をつくった。この毎月の例会は楽しかった。このご縁で八幡製鉄の藤井丙午氏、小野田セメントの安藤豊禄氏、日経連の前田一氏らとも親しくなった。

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