野村胡堂 のむら こどう

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1956/12/03〜1956/12/10
出身地岩手県
生年月日1882/10/15
掲載回数8 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社報知新聞
配偶者記載なし
主な仕事社会部長、文芸部長、編集局相談役、「銭形平次捕物控」、記者生活30年
恩師・恩人牧野英一教授
人脈米内光政・板垣征四郎・金田一京助・石川啄木(盛岡中)、芦田均・石坂泰三(一高)
備考父:村長
論評

1882年10月15日 – 1963年4月14日)は岩手生まれ。小説家、人物評論家。『銭形平次捕物控』の作者として知られる。音楽評論家としての筆名はあらえびす、野村あらえびす、とも。1931年 – 文藝春秋発行の『文藝春秋オール讀物號』創刊号に捕物帳の執筆を依頼され、銭形平次を主人公にした「金色の処女」を発表、『銭形平次捕物控』の第1作目であった。これ以降、第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。1949年 – 捕物作家クラブが結成され、初代会長に就任する。後に「日本作家クラブ」と改名して会長を継続。

1.盛岡中学・黄金時代の人材
明治32年(1899)ごろの盛岡中学はまったく梁山泊であった。上級には米内光政があり、下級には鬼将軍の板垣征四郎がある。その間に八角将軍があり、田子一民があり、郷古潔があり、金田一京助があり、小野寺直助があり、弓館小鍔がある。盛岡中学の黄金時代は、どうして現出したのかわからない。特別な精神運動があったわけでも、すばらしい教育があったわけでもなく、5年間続いて詩人は石川啄木で終わっている。
 お城の藪の中で試胆会をやったり、自由画を集めて、絵画展覧会をやったこともある。昔の少年はずい分のん気であったが、相応の文化運動もやったわけであるが、太陽族もグレン隊もなかった時代で、今から考えると、いくらか伸び伸びしていた。第一この5年間、盛岡には一つの殺人事件もなく、注目される事件もなかった。

2.一高時代
明治39年(1906)ころの一高は、思い切り野蛮な学校であった。藤村操が華厳の滝で死んだ少し後、名校長新渡戸稲造博士の少し前で、私の一生のうちでもこんなうれしい3年はなかったのである。同じ組に芦田均がいたのを記憶している。川上弘一がいたのも明らかに知っている。石坂泰三もいたはずである。藤井武や塚本虎二もいたはずである。
 辰野隆博士は、私の下の級で同じ級に谷崎潤一郎もいたはずである。同室の後の名判官三宅正太郎とは、どちらも体が大きく、好個の角力相手として、組んずほぐれつしたものである。私は一高の寄宿舎に住んでいて、一高の生活とまったく孤立していたのである。私の読み貯めた徳川時代の軟文を証拠立てるために、私は身を持て江戸の研究に没頭しなければならなかったのである。
 一高から東大へ入ったころの恩師牧野英一先生は今でも生きておられる。しかし土台、私は法律というものを好きになれるわけはなく、無理に私を法科に入れた父の死を合図に、新聞社に入ろうと決意した。

3.新聞記者時代(銭形平次捕り物控)
明治40年(1907)報知新聞社に入社した。翌日から和服のまま、政友会と逓信省と、農商務省と、陸軍省を受け持たされ、草履をはいて小倉の袴を着け、さっさと通ったのである。当時の新聞記者は、なかなかに荒っぽく、編集局でケンカをする者もあり、一升瓶を持ち込んで来て、夜になるとそれをぐい飲みして記事を書く豪傑もあった中にはテンから文章が書けず、編集局へ帰って、筆のとれる男にお世辞を言って書いてもらう旧式の記者もないではなかった。
 私は30年間ニューム腰弁当をぶら提げて、いささかも恥じる心持がなく、威張り帰って天下を論じたのである。そのほか、私は一生をかけて、銭形平次捕り物控を書き、総量400話に上っているが、あの銭形平次親分と、子分の八五郎は、新聞社の中の部長と外交のやり取りである。途方もないダジャレと諧謔、驚くべき正義感は記者そのものであり、新聞社の中でなければ、実見のできない空気である。君は新聞記者を書いているんじゃないかと、よく言われたことを思い出している。

野村胡堂
誕生野村 長一のむら おさかず
(1882-10-15) 1882年10月15日
岩手県紫波郡
死没 (1963-04-14) 1963年4月14日(80歳没)
東京都杉並区
墓地 多磨霊園
職業 小説家
人物評論家
音楽評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京帝国大学 中退
活動期間 1932年 -
ジャンル 時代小説
少年少女小説
文学活動 日本作家クラブ
代表作 銭形平次捕物控
主な受賞歴 菊池寛賞(1958年)
子供 松田瓊子(娘,次女;まつだけいこ)
特記事項:
音楽評論は「あらえびす」の筆名を使用。
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(のむら こどう、1882年明治15年)10月15日 - 1963年昭和38年)4月14日)は、日本小説家・人物評論家[2]。『銭形平次捕物控』の作者として知られる。音楽評論家としての筆名はあらえびす[2][3][4][5][6][注釈 2]野村あらえびす[8][9][10][11]とも。本名:(のむら おさかず)[2]。娘は作家の松田瓊子[12]

  1. ^ a b 野村胡堂. “随筆銭形平次 ペンネーム由来記”. 青空文庫. 2020年1月15日閲覧。
  2. ^ a b c 著者紹介、あらえびす 著、原著は1939年刊 編『名曲決定盤』 下巻、中央公論社、1981年。 
  3. ^ 野村胡堂”. 野村学芸財団. 2020年1月15日閲覧。
  4. ^ 長尾宇迦「野村胡堂」村田源一朗編『岩手人名大鑑 岩手日報創刊110年記念』岩手日報社、昭和61年6月25日発刊、609頁。
  5. ^ 尾崎秀樹「野村胡堂」平凡社編『日本人名大事典 現代』平凡社、一九七九年七月一〇日 初版第一刷発行、六〇二頁。
  6. ^ 尾崎秀樹「野村胡堂」新潮社辞典編集部編『増補改訂 新潮日本文学辞典』新潮社、一九八八年一月二〇日 発行、ISBN 4-10-730208-3、986頁。
  7. ^ 紀田順一郎「野村胡道」『ペンネームの由来事典』東京堂書店、二〇〇一年九月二〇日 初版発行、ISBN 4-490-10581-9、196頁。
  8. ^ 歌崎和彦『証言―日本洋楽レコード史(戦前編)』音楽之友社、一九九八年三月三十一日 第一刷発行、ISBN 4-276-21253-7、14~25頁。初出は、証言者 藁科雅美・レポーター 歌崎和彦「証言/日本レコード史 クラシック音楽の総明期」『レコード芸術』第39巻第1号 (通巻472号)、音楽之友社、1990年1月1日 発行、66~69頁。
  9. ^ 奥村敏明「音楽文庫」『文庫パノラマ館』青弓社、二〇〇〇年十月三十日 第一版第一刷発行、ISBN 4-7872-9145-9、210~212頁。
  10. ^ 日外アソシエーツ編『新訂 作家・小説家人名事典』日外アソシエーツ、2002年10月25日 第1刷発行、575頁。
  11. ^ 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス
  12. ^ 松田瓊子”. 河出書房新社. 2019年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月4日閲覧。


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