掲載時肩書 | 東急会長 |
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掲載期間 | 2024/03/01〜2024/03/31 |
出身地 | 福岡県 |
生年月日 | 1947/09/27 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 県立京都高校 |
入社 | 東京急行電鉄 |
配偶者 | 友人紹介5歳下 |
主な仕事 | 宅地造成、住宅開発、東急不動産、ケーブルテレビ、不動産*IT融合、空港と路線、海外事業、鉄道事業分社化、 |
恩師・恩人 | 越村敏昭 |
人脈 | 横田二郎、斎藤英四郎、隈研吾、小宮山宏、三木谷浩史、清水信次、伊藤雅俊、岡田卓也、 |
備考 | 実家:小売店、バイト50以上、慶太塾、 |
東急グループから「私の履歴書」登場で氏は、五島慶太、大川博、五島昇、岡田茂に次いで5人目である。福岡県の小さな町の商店で育ち、少年時代から商売知識や人のつながりを経験。就職先で宅地造成や開発事業、インターネット時代では地域と一体となるケーブルテレビ事業に取り組み、人とモノを融合することに成功し、大きく自分を飛躍させる基盤を築いた。これら一連記述は企業経営の指針になると思った。
1.働く原点は自営業
北九州市の行橋は、かって炭鉱で有名だった筑豊地区などへの交通の要所で、「野本商店」がある商店街は魚市場と青果市場があって、賑やかな場所だった。パン屋、魚屋、八百屋、薬屋、洋服屋、写真館・・・商店街のおばさんや子供たちと仲が良く、気軽に店に出入りしていた。
商店の手伝いは性に合っていて結構好きだった。 お中元やお歳暮のシーズン中は大変忙しく、番頭さんやアルバイトに交って私も手伝った。陳列されている商品から、洋酒や缶詰などを組み合わせて化粧箱に丁寧に入れて贈答品をつくった。贈答品の売上で自分の小遣いも変わる。どんな組み合わせが売れるのか。理屈も根拠もないながら真剣にいろいろと試してみた。見栄えの良さなど、何となく勘所が解るようになった。後にサラリーマンとして人生を歩んだが、働くことの原点は野本商店にある。
2.バイト50種以上で実務を経験
大学に入り、いろいろな仕事に興味があり、おそらく50種以上のアルバイトを経験した。結婚式の裏方、百貨店でドキドキしながらマネキンに服を着せる仕事、衣料品問屋、市場調査などなど。浅草の家具屋で配送運転手を長くやったが、重いタンスを上の階に持って行くのは大変だった。ホテルの着物の展示場づくりも、重い台を運ぶので辛かった。少しだけでも経験していれば、いろいろな業種でどんな現場があるのかをイメージできる。東急に入ってからの仕事で役立ち、特に経営層で仕事をするようになってからその経験が生きている。幅広い業種と関わる場面が増えてくるからだ。
3.出向で守りから攻めの必要性を自覚
14年間の厚木勤務で宅地造成や開発事業を経験し、ようやく東急本社勤務となった。課長になれるかなと思っていると「東急不動産に出向してくれ」。本社から関連会社にへの出向は当時、片道切符と見られており、さすがに心配になった。「3年間勉強してこい」と言われて少しは気が楽になったが・・。
当時はバブル経済の頂点で、国を挙げてのリゾート開発ブームだった。東急不動産による会員制リゾートホテル「東急ハーヴェストクラブ」事業に参画し、静岡県の浜名湖畔でのホテル新設を担当した。リゾートやホテルの経験はなかった。せっかくのチャンスと思い大いに勉強しようと、多くの国内外施設を見て回った。
東急不動産と東京急行電鉄は社風が全く違っていた。一言でいえば、狩猟民族と農耕民族だ。不動産会社は、ある目的に対して個人レベルでもあの手この手で「狩り」に行く。一方、農耕民族である鉄道会社は個人よりチーム全体を優先する雰囲気だ。東急不動産社内である開発案件を3プラン作って、担当部長に「いかがしましょうか」という私に対して、「それで君は何をやりたいんだ」。この言葉は頭を叩かれたような衝撃だった。
選択肢を用意して上司に決めてもらう「作法」を真っ向から否定されたのだ。「これではいけない」と率直に思い直して、初心に戻る契機となった。自らが経営者になった今、意図して「それで何をやりたいんだ」と部下に言うようにしている。そうしてはじめて部下は、より深く考えるようになるから。
4.ケーブルテレビ事業で子会社社長へ
1991年7月、東急不動産への出向を終えて、「生活情報事業部、ニューメディア課」43歳の課長になった。
「これからの時代はこれが絶対に必要だ」。1980年代に情報化時代が訪れるなか、五島昇社長が打ち出した「3C」というビジョンがある。ケーブルテレビ、クレジットカード、カルチャーという事業だ。
ケーブルテレビ事業は私がニューメディア課長として担当となったとき、社内の管理会計ベースで年間28億円の赤字を出していた。過去からの累損は200億円規模だった。大きな赤字事業として認定されたままでは前向きな投資が出来ず停滞し続ける。そこで私は当時の横田二郎社長に言った。「200億円を捨ててください。今ある多摩田園都市の土地の価値を上げるためのコストだと思ってください」。管理会計の話ではあっても赤字をチャラにして欲しい。そうすれば運営子会社である東急ケーブルテレビジョンは前向きに自立的な経営ができる。「メディアで沿線価値を上げてもらいましょう」と訴え特例措置を認めてもらった。
この後もいろいろあったが「言い出したお前がやれ」で、2004年ケーブルテレビ子会社、イッツ・コミューニケーションズ社長に56歳で就いた。まず取り組んだのが、社員の意識改革と営業力の強化だった。「ケーブルテレビの将来性を訴えた」が、トップが自らの言葉で方針を示すのは大切だが、頭ごなしではうまくいかない。ともに弁当を食べるなどしながらプロパー社員と意見交換することにした。様々な人たちの声を参考にして、幅広い改革案をつくり実行していった。コンテンツも自主放送の在り方などを改善した。
対話を続けるなかで、事業の将来性について社員が前向きなイメージを持てるようになった。インターネットや電話サービスなどの事業にも力を入れることで、単にテレビを観るだけのケーブルではなく、地域の暮らしを支える生活インフラになりうることが実感できてきた。この一連の取り組みで加入者が飛躍的に増えた。初年度で営業損益が黒字に転換。これにより、3年目には累損を一掃する当初目標が達成できた。
5.本社復帰で4大開発プロジェクトに挑戦
不動産業界は一般に、IT(情報技術)の活用などビジネスモデルの進化に後れを取っていた。私のキャリアは本流ではなかったが、不動産事業とメディア事業にそれぞれ長く携わってきた経験が生きた。不動産とITを掛け合わすことでイノベーションのアイデァが次々と浮かんでいた。オフィスビルへの光ファイバーの導入、駅利用者へのサイネージを使った情報配信、街の安全を守るための防犯カメラデータの活用など。「野本を呼び戻して、開発をやらせよう」のトップの考えで2007年6月、本社の株主総会で取締役となる。
2011年4月1日、東京急行電鉄の社長に就任したが、前月の3月11日に東日本大震災が発生した。社長就任前に決まっていた会社の予算は、様々な事業において見通しが変わり組み直さざるを得なくなった。想定外の1年目を走りながら、私には中長期ビジョンを示し、具体的な戦略を練るという任務があった。
社員や株主などステークホルダーに明確に伝わり、インパクトがあり、覚えやすい言葉を検討し、「3つの日本一、ひとつの東急」と決めた。具体的に中期3か年の経営計画と合わせてビジョンと方向性を示した。
(1)「日本一働きたい街 二子玉川」:この場所を知ってもらうため、10年に当社を含む6社を発起人とする「コンソーシアム」を立ち上げた。デジタルや情報関連産業が集積し発展するための都市の在り方を研究する団体で、二子玉川がモデル地区となった。三菱総研理事長の小宮山宏さんに会長をお願いした。この結果、楽天創業者の三木谷浩史会長兼社長が賛同してくれ、本社を新ビルに移転してくれた。
(2)「日本一訪れたい街 渋谷」:渋谷は東急東横線と東京メトロ副都心線が相互直通運転するという大きな環境変化も13年に控えていた。渋谷を通過駅にならない新たな魅力を創出しなければならなかった。そのため、駅周辺の開発では「渋谷ヒカリエ」「渋谷ストリーム」と続き、いよいよ渋谷駅直上の高層複合ビル「渋谷スクランブルスクエア」建設となった。ここを展望台(渋谷SKY)にすることで、360度の大パノラマが拡がり人気が高くなり、外国人旅行客の都内訪問場所として、渋谷が22年に初めて訪問率トップとなった。
(3)「日本一住みたい沿線 東急沿線」:東急沿線は住む場所としての魅力を他の沿線と競い合っている。人口がどんどん増える時代は過ぎ去り、首都圏も高齢化が進む。そこで「東急ベル」。2012年から始めた沿線サービスだ。ホーム・コンビニエンスサービスと銘打っており、スタッフが顧客宅まで出向いて様々な商品やサービスをお届けする。家事代行からシニアの付き添い、お片付け、ペットシッターまで幅広い。東急ベルは将来的に「究極の小売業態」になることを目指している。