掲載時肩書 | 作家 |
---|---|
掲載期間 | 1989/06/01〜1989/06/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1923/03/27 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 3年浪人 |
入社 | 鎌倉文庫 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | やんちゃ(鞍馬天狗まね等)、上顎癌、松竹X、仏留学、結核療養、芥川賞、海と毒薬、第3の新人、 |
恩師・恩人 | 利光松男、佐藤 朔 塾長 |
人脈 | 阿川弘之、楠本憲吉、三浦朱門・曽野綾子、松村剛・英子、佐藤愛子、安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三、熊井啓、梅崎春生 |
備考 | クリスチャン |
1923年(大正12年)3月27日 – 1996年(平成8年)9月29日)は東京都生まれ。小説家。随筆や文芸評論や戯曲も手がけた。狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つきの作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としていた。この「履歴書」では、少年期のヤンチャぶりを軽妙洒脱に書いている。
1.東海林太郎氏の妻
大連時代に私の家によく遊びに来る女性がいた。彼女は上野の音楽学校(今の芸大)の卒業生で、亡くなった私の母もそこを出ていたので、親しく交際していたのである。渡辺静(しず)さんという名前だった。
彼女は私の通っていた小学校からあまり遠くない場所に大きなシェパードと一緒に住んでいた。私はそのシェパードと遊びたくて、下校の途中、よく彼女の家に寄っていたものだ。一人暮らしの彼女は子供の私が来るのを楽しみにしてくれて、おやつを食べさせ、犬と遊ばせ、それを幾分寂しそうな微笑を浮かべて見ていた。どうしておばさんは一人で住んでいるのかと私は不躾な質問をしたことがある。
「間もなく、大連におじさんが来るから待っている」と答えた。おじさんとは彼女の恋人のことだった。彼女がじっと待っている「おじさん」とは年配の人ならおそらく記憶している東海林太郎という歌手だった。
ある雑誌がその東海林太郎さんと対談する機会を私に与えてくれた。対談が終わった後、
「私は子供の頃大連に居られた奥さまに可愛がっていただきました」と私が彼女の名前を口に出したとき、「えっ」と東海林さんは驚いて、うつむいた。「静は・・・私にとって・・・神のような人でした」と言った。
彼の眼から泪が出ていた。
2.白紙答案はダメと言われて
往年の通信簿を見ると国語や英語は60点台の数字がつけられ、数学や物理や化学は20点~40点という悲惨な点数がつけられている。数学の試験は白紙に近かった。「白紙はいけない。何でもいいから書け」と秀才だった兄に叱られた。もっともだと思った。
次の試験の時、兄のこの忠告を思い出して教室で問題とにらめっこしたが、いくら睨んでも答えられる筈がない。色々と考えた末、全問に「そうである、まったくそうである。僕もそう思う」と書いた。当時は灘中もスパルタ教育だったから、私は数学の先生にひっぱたかれた。
3.佐藤朔先生
先生に手紙を書いたのは慶応大学に入学して間もなくだったと思う。仏文科に進んだのは分からぬなりにもご著書を読んだためなのに、肝心かなめの先生が休校とは残念で仕方がないと不満を述べた。すると早速、ご返事をいただいた。「遊びに来たまえ」。右上がりの先生の字を拝見したのはこの時が初めてである。
その日、先生は「仏文科に入った以上、自分だけのテーマを決めなさい」「熟読する1冊の本と濫読する多くの本とを持ちなさい」。そして帰りに「できるだけ早く、これを読んでごらん」。紺色の表紙の薄い本だった。シャルル・デュボスという評論家の「カトリック作家の問題」という原書である。その夜から辞書をめくりめくり1頁、1頁を読みあげたのは、佐藤先生の魔力のせいかもしれない。
ところがこの本が猛烈に面白かった。一か月近くかかって私はやっと読み上げたが、その時は何ともいえぬ征服感と共に一か月前までの自分とが大きく違ったような気さえした。嘘だろうとおっしゃるかもしれないが、この時から私ははじめて勉強に熱中しだしたのである。
4.仏留学で珍回答
大学の始まるまで3ケ月間の夏休み、ロビンヌさんという建築家のご夫婦が、見も知らぬ私をわが子のように可愛がってくれた。
ロビンヌ家は熱心なカトリック信者だったから子供の数は多かった。今もそうだが当時の私のフランス語はひどかったから、夕食の時、日中はともかく、かわたれ時になると相手の言うことがモウロウとしてくる。夕食のテーブルで、「日本の家ではベッドがないんだってね。じゃ、床に寝るの」などと子供から聞かれても、畳の説明をするのが面倒くさく困難だ。だから畳の代わりに藁という言葉を使い、「藁(バイユ)を使うんです」と答える。子供たちがどっと笑うとロビンヌ夫人が私に気を使って、
「いいえ、前にキャンプで私たちも農家の納屋に泊まったでしょう。あの時藁が暖かかったのを覚えているでしょ。だから日本人の方はそれに寝るんですよ」ととりなしてくれるのだった。
「日本人の家は木と紙で出来ているそうだが、台風に飛ばされないのかね」とロビンヌ氏に訊ねられる。障子の説明をするためにいい知恵も浮かばないし、夕暮れで私はくたびれている。面倒くさくなり、
「はぁ、ときどき、空中に飛ばされます」、「ふむゥ」。ロビンヌ家ではあの頃、私を通して日本について奇怪なイメージをあまた持ったに違いない。
5. 「本」との出会いと気づき
弥次喜多の出る「東海道中膝栗毛」は私が中学生の時、初めて読んだ岩波文庫本である。今でも仕事が行き詰まり辛い時はこの膝栗毛や江戸の滑稽本をよく読む。外国に行くときも膝栗毛の本を鞄に放り込む。ロンドンやニューヨークのホテルでこの本を読むと日本人の良さや日本人の臭さが感じられるからだ。
しかし近頃、この本を本当は寂しい本だなと思うようになった。「伊勢物語」という寂しい男の人生の旅物語が古典にあるが、膝栗毛はこの「伊勢物語」のパロディなのだ。人生という雨の降る街道をトボトボ歩く二人の後ろ姿がむしろ今の私の目の前に浮かぶようになった。
一冊の本も年齢によって読み方が変わる。少年時代や青年時代の愚行もそれを俯瞰できる年齢になってみると、全てそれは意味があり、マイナスでは絶対になかったことがやっと理解できたのだ。そしてその一つ一つが糸で繋がり、その先で人生を包む大きな存在が微笑しながら私を見ていてくれたことがわかった。
遠藤 周作 (えんどう しゅうさく) | |
---|---|
1966年10月21日、町田市玉川学園の自宅で撮影。 | |
誕生 | 1923年3月27日 日本 東京府北豊島郡西巣鴨町 (現 東京都豊島区北大塚) |
死没 | 1996年9月29日(73歳没) 日本 東京都新宿区信濃町 慶應義塾大学病院[1] |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 慶應義塾大学仏文科 |
活動期間 | 1953年 - 1996年 |
ジャンル | 小説 随筆 文芸評論 戯曲 |
主題 | キリスト教 |
文学活動 | 第三の新人 |
代表作 |
|
主な受賞歴 | |
子供 | 遠藤龍之介(長男) |
親族 | |
ウィキポータル 文学 |
遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
11歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。