掲載時肩書 | 旺文社社長 |
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掲載期間 | 1972/08/23〜1972/09/17 |
出身地 | 山梨県 |
生年月日 | 1907/03/31 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 東京外国語大学 |
学歴その他 | |
入社 | 独立・ 旺文社 |
配偶者 | |
主な仕事 | 通信添削(中学)猟犬改良、豆単、百万人の英語、文化放送、教育テレビ、英語教育協会 |
恩師・恩人 | 小川芳男 |
人脈 | 小林中、梁瀬次郎(同郷)、清水箟、水野成夫、正月に遺書、マルセリーノ神父 |
備考 | 父の教訓 |
1907年3月31日 – 1985年9月11日)は、日本の出版人、放送人である。歐文社(現在の旺文社)を設立。この他に文化放送や日本教育テレビ(現在はテレビ朝日)を創業、放送大学の設立にも貢献し、また実用英語技能検定や全日本学芸科学コンクールの創立(1957年(昭和32年))にも協力。教育と情報の融合に努め、日本メディア界の発展に貢献した。趣味人としても知られ、書画骨董の収集品は財団法人センチュリー文化財団に収蔵されている。また、射撃においては全日本選手権で優勝し、1954年の世界選手権で銀メダルを獲得するほどの腕前でもあり、長きにわたり社団法人全日本狩猟倶楽部の会長も務めた。
1.ファシズム批判が追放解除の理由に
東京外語の2年のときだったと思う。当時学校には、機関誌「炬火」というのが出ていた。私はその「炬火」に「ファシズム批判」という論説を書いた。その当時は、日独伊三国同盟の行われたころでファシズムやナチスを批判することはタブーとされていたのであるが、それを私はあえて行ったのである。それが巻頭に載った。私は学生間には人気を博したが、どうも先生からは睨まれたようである。
私は戦後、追放処分を受けた。「G項該当超国家主義者」というわけである。と言っても、これは別に私の思想がそうであったというのではなしに、出版業者の主なる人を追放しようという勝者の裁きであるから、どうにもならぬことなのである。その後数年してから、追放解除の制度ができた。この時、私はあまり解除してもらおうという気持ちはなかった。むしろ、諦めていたのである。
そのころ、前の東京外語大学の学長小川芳男君から「君はG項該当であるが学生時代にファシズム批判という論文を書いたことがあるじゃないか」と言う話があった。小川君はそれを持ってきて、それを英訳された。恥ずかしい話であるが10数年前の学生時代の論文を英訳して「彼はまさに超国家主義者ではない」と、それを追放解除の申請書の書類の一部に付け加えたわけである。これが、早く解除になった理由かもしれない。世の中はおかしなもので、その当時学校から進歩的と睨まれていたのが、今度は民主主義者として追放解除の理由になったわけであるから、まさに皮肉なものである。
2.出版事業で一人立ち
私は東京外語を卒業したが、そのころ健康を害していた。病気は胃腸が弱く、それに胸も少し弱かった。いずれも多少神経的なものもあったように感ずる。生まれが田舎なので都会生活にはチョッと適さなかったかもしれない。自分は今後どのような生き方をすべきかということを湯治場でじっくり考えた。
自分は比較的才能に恵まれていて、何でもできるような気もするし、またどれをするにも力が足りず何事もできないような気もする。自信と不安が交錯して結論が出ないのであった。先祖からの血筋や父の商才を真似たいとも思ったが、結局、人に使われることはどうも性格が生一本で直情過ぎて向かないように思ったので、外語時代ジャーナリズムの研究をしていた関係もあり、その方面が一番適するだろうと思って、資本も少なくて自分の才能を生かす術として、出版を選ぶことにした。出版と言っても新聞社をつくるわけにはいかないし、当時はラジオも国営だけだし、テレビもなかったのでこれにしたのだった。
3.創業時は通信添削教育から
私は、父にわずかな資本を出してもらって事業を始めた。資本といっても事務所を借りるくらいの金であるが、できるだけその範囲内で仕事をしなくてはならない。しかも私には出版の経験もないので、はじめにまず自分の手近なよくわかっている中学生を対象にした仕事をやろうと考えた。
何事も自分一人の努力だけで事は成るものでもない。そして当時私の求めに応じて幾人かの友人たちが協力してくれた。国語では今の学燈社の会長保坂弘司君、同窓の甲斐静馬君、先生では商船学校の須藤兼吉教授の指導を得た。そして生一本にまじめに通信添削事業をやったので、数か月すると次第に会員が増えて採算もとれるようになってきた。
4.“豆単”の出版がロングセラーに
私の事業は通信教育から出発したのであるが、特に通信教育に深い関心を持っていたわけではない。私は、「夢髙くして、足地にあり」ということをモットーに出発した。従って私は絶対にベストセラーを狙わない。ロングセラーを狙うべきだという考え方、そして理想を貫いて、しかも理想にとらわれ過ぎて、足が地から離れないように、理想と現実の一致ということを深く胸に銘記して始めたわけである。
私はその出版の代表的なものとして、英語の単語集を作ることにした。英語学習の中でも、単語を覚える苦労というものは非常にやり切れない努力を要するもので、これを少しでも覚えやすいものにしてやろうと考えた。これは、社員と共にやったのであるが、来る日も来る日も単語を切って紙に張り、語源や同意語、反意語、用例を探し出しこれらを分類していったが、実に単調な仕事でやりきれない思いをした。これが、後に英語基本単語熟語集、いわゆる“豆単”といわれるものの最初であり、日本一のロングセラーとして、週刊誌を始め、新聞等に紹介されたものである。今考えても、懐かしい思い出であり、また苦しい思い出である。