掲載時肩書 | 元東証理事長 |
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掲載期間 | 1990/01/01〜1990/01/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1916/03/26 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 大蔵 |
配偶者 | 先輩娘 |
主な仕事 | 大臣秘書、生ワクチン、主計局長、次官、外務省顧問、公取委員長、東証理事長、資本市場振興財団 |
恩師・恩人 | 賀屋興宜、宮入鴻一医師 |
人脈 | 石田和外、奥野誠亮(一高)河井信太郎、迫水久常仲人、福田赳夫、石野信一 |
備考 | 文筆家(絵巻物21巻) |
1916年(大正5年)3月26日 – 1996年(平成8年)10月22日)は東京生まれ。大蔵官僚。大蔵事務次官、公正取引委員会委員長、東京証券取引所理事長等を歴任。妻 恭子 – 警視総監、台湾総督府総務長官等を歴任した斎藤樹の長女で、司法大臣、鉄道大臣等を歴任した小川平吉の孫。「私の履歴書」では優等生的な大蔵官僚業務の変遷を拝聴しているような感じであり、印象深い記述は少なかった。
1.大蔵官房調査部の仕事
昭和25年(1950)に配属となった。ここは行政全体の基になる経済情勢の把握や統計資料の整備を仕事にしていたから、部内用だけでなく一般向けの図書の編集、刊行も多かった。戦前から出していた調査月報の他、統計月報、統計要覧、内外主要経済指標などは、私のころに始まって今日もなお続いている。
また、大蔵省の歴史を編纂するという仕事もあって、そのころは「昭和財政史」の編纂に取り掛かっていた。戦争終結までの20年を項目別に記述してゆく仕事は学者の方々にお願いし、我々は資料の収集整理と刊行とを担当したが、今に残る数多くの関係者の口述資料はこのとき整えたものである。
昭和財政史の戦後編は、占領期間中の分は既に刊行され、目下はオイルショックまでの20年を一区切りに編集を進めている。
2.証券行政
昭和34年(1959)5月、理財局の証券担当に替わった。次官の森永貞一郎さんも戦争末期に担当していたのでご指導をいただいた。今でこそ銀行局と並ぶ証券局だが、当時は理財局の証券課で全てをやっていた。それを2つに分けて、流通市場行政を第一課、業者行政を第二課とし、検査管理官を加えた三課体制が既に発足していた。証券行政担当を命ぜられた私は、西原局長、吉田次長にお願いして、発行市場を受け持つ経済課も統括することにしてもらった。既発行の株式や社債が流通市場で動き回るのを追うだけでなく、企業の資金調達がより多く市場を通じて行われ、国民の貯蓄と企業の資本とが直接結びつくことが大事だと考えたからである。その後、株式投信が人気を集め、さらに公社債投信にまで発展して業容を拡大し「池の中のメダカが鯨になった」と言われるようになった。
3.大蔵省、予算屋からの弁明
主計局は国家財政を管理し国家予算を担当する。よく我々予算屋は大局を見ないで重箱の隅をばかりつついているといわれるが、限りある財源の配分だからつかみ金というわけにはいかない。と同時に、予算がその都度必要に応じてつくものなら結構なのだが、根を生やして後にまで残るようなものになると、よほどその効果を見定めなければならない。後年に累増するようなものは尚更である。
事務屋は黙れ、政治の問題だと言われて断が下ることも多いが、そのときは一部に喜ばれても、後は当たり前の話になって既得権化してしまうものも少なくない。どこまでが税金を使ってする仕事か、どういうことは自分の責任と負担でやることか、その振り分けが大事なのである。これをずいぶん主張したつもりだが力不足だった。
4.国際金融局長を財務官(次官級ポスト)に
昭和42年(1967)1月早々に事務次官の佐藤一郎さんが参院の補欠選挙に出ることになり、急遽その後釜に私が就いた。IMF八条加盟国に移行し、OECDに加盟してから3年が経っていたが、我が国の資本自由化に対する国際社会の評価は厳しかった。国際通貨の面では、ドルの信認が揺らぐ中で、国際金融舞台に参加する柏木雄介国際金融局長を海外向けには国際金融担当のヴァイス・ミニスターということにした。局長からこのポストに就いた柏木君をはじめ、その後の財務官たちが、国際舞台で活躍している。